森の日記

見たこと、知ったこと、感じたこと。

道に迷った日。

行きの道すがらには気がつかなかったことが、帰り道だとふと目にとまる、ということがある。

 

先日、ある通りを2回目に通ったとき、不意に、まっしろな壁とピンク色の花がとてもすてきな家に「一階の借り主募集中」の大きなポスターが貼ってあることに気づいた。

1回目に歩いたときはまったく気づいていなかったので、つい、「あれ、道を間違えた?」と思った。本当にとてもすてきな家だったので、最初にその家のポスターに目がとまらなかったことが不思議に思えたのです。

そして、思わず通りを元来た道を戻って、なんどもうろうろしてしまったのでした。

(そのとき、携帯の電池が切れてしまっていて、ナビも見られず、自分のうろ覚えの記憶を頼りに道を歩いていた。)

最終的に、街のバスの路線案内に書かれたざっくりとした地図をもとに、「来た道であっている」と判断し、無事に帰ることができました。 

 

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何が言いたいかって、ひとというのは自分が認識して始めて「理解」できるわけで、世の中には、自分の認知に入っていないたくさんの事実や世界があるのだな、ということ。そして、単に自分が気づいてなかったくせに、都合良く解釈しようとすることだ。

 

そう考えると、私の見ている世界なんて、なんと偏って小さいんだろうなあ、と思う。たとえば私はネットに詳しくないので知らないことだらけだし、フランスだってまだまだ本当に部分的にしか知らないし、日本であっても、ごまつぶのような知識しかない。(世界の広さと豊かさを考えたらごまつぶというよりミドリムシとかミジンコくらいの大きさかも・・・)

 

まあ、そんな中でも、自分の知識が限られたものであると自覚はしつつ、出会って(理解しうる)ことを少しずつ自分の理解で深めていくしかないのだなあと、思いました。

以上、道に迷ったある日の経験から、考えたこと。

 

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、、、というわけで、そんな今日に偶然目にとまり、偶然わたしの関心を惹いたに過ぎないアメリカのニュースについて。

www.francetvinfo.fr

トランプ大統領が、メキシコなどからやってくる移民たちに「(アメリカを目指してやってくる)気持ちをくじく」ために、子どもの拘留の無期限化を要求した、というニュース。

現時点では、子ども、そしてその親は21日で解放されるそうで、それが「1か月以内に自由になる」ということでアメリカを目指す気持ちを助長している、とホワイトハウスは言っているらしい。

この要求が通れば、2か月以内には実行が始まるとのことだ。

ちなみにトランプは「そもそも思い出して欲しい。子どもと親の引きはなしを始めたのはオバマで、彼が牢屋を作り、私はそれを引き継いだだけだ」と述べている。

 

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以前、フランスの「極右」とよく言われるマリーヌ・ル・ペンが言っていることは、単純に「フランスを日本のようにしたいだけだ」という記事を何度か読んだことがある。

 

日本の移民や難民に対する強硬・閉鎖的な態度は世界的にも有名、批判されているけれど、その事実は、じつはあまり日本のひとたちのあいだではきちんと認識されていないように感じる。 

https://www.buzzfeed.com/jp/yoshihirokando/redfugee-japan?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharecopy

いま時点で移民に対して強硬なことを言っているトランプやイタリアのマテオ・サルビーニなどの主張も、ものすごくざっくりしてしまえば、日本のやっていることとそんなに変わらない。

 

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ただ、じゃあ日本は日本のままで、トランプやサルビーニの意見を支持、でいいのか?といえば、違う。

そもそも、難民はいのちの危険に差し迫って、移民はよりよい暮らしを求めて、母国を離れて別の国を目指す。

もちろんその点できちんと、その必要性(理由)がどちらかを見極めなくてはいけないのが大前提なのだけれど、移民だって、「よりよい生活」を求めているのなら、母国で目指せば良いはずだ。

それが出来ない事情はなんなのか。

を、考える必要があるのではないかと思う。

受け入れの難しさ、止めどなく押し寄せる人々など、現実の厳しさを想像に固くないけれど。

やっぱり現代は、「断絶」じゃなくて「相互理解を目指す(少なくとも、目指せる)」時代ではないかと思うから。

 

皆さんはどう思いますか。

アジアでもいつか。

今日は、私がすきなテレビ局の話。

 

それは、Arte(アルテ)という、フランス東部アルザス・ロレーヌ地方のストラスブールに拠点を持つテレビ局だ。

「ドイツ・フランスの文化・ドキュメンタリーチャンネル」で、半分ドイツ、半分フランスの公共テレビがが出資している。

www.arte.tv

 

いくつか好きな理由があるのだけど、まず何よりドキュメンタリーの映像がきれい。たとえナレーションが分からなくても、映像を見ているだけでも美しい。

そして、いろんな国のいろんな話題を取り上げる。ドイツとフランスに限らず、ヨーロッパのほかの国、アジア、アメリカ、、、いろんな国のいろんな風土を見つめる。自然も。

 

ちなみに、このテレビ局はフランスとドイツがつくった公共チャンネルなのだけど、いくつかの点で特殊。

まず、二カ国で、というところ。1990年10月2日にフランス・ドイツ間で結ばれた条約によって作られたため、国家の規制下にない。

ちなみに財政面では、95%が受信料によってまかなわれている。(フランスとドイツで半分ずつ。)のこりは、独自の収入源(おそらく広告や番組の販売など)

1980年代、ヨーロッパが共同体として共通貨幣(現在のユーロ)を作ろうと動き出していたとき、フランス人ドイツ人ともに、互いの文化を理解し合い、ヨーロッパ統合に向けて近づくための共同チャンネルを作ろうとしたことから生まれた。

フランス語、ドイツ語のみならず、英語、スペイン語、ポーランド語、イタリア語も放送を見ることができるので、ヨーロッパ市民の70%が直接Arteの番組を視聴することができる。

 

ちなみに、ストラスブールのあるアルザス・ロレーヌ地方というのは、フランスとドイツの国境すぐそばにある。鉄鉱石と石炭が採れる豊かな地域でもあるため、歴史的にずーっと、フランスとドイツはこの地域を取り合ってきた。

普仏戦争でプロイセン(ドイツ帝国)が勝ち統治、

第一世界大戦でドイツが敗北してフランスが領有、

第二次世界大戦でナチスがフランスを破り自国に編入、

しかしその後フランスが最終的に連合国軍として勝ち再び領有。

以降、いま現在の国境。

 

以前、パリでこの地方出身のおじさんと話したことがあって、おじさんの両親や祖父母の代の話をしてくれた。

統治国が変わるたびに、何度も公用語がドイツ語とフランス語のあいだで行ったり来たりしたのだそうだ。たとえば「明日から"今日まで話していた言葉”を話してはいけない」などという理不尽なことも。

だからこの地域の多くの高齢者はフランス語もドイツ語も理解する。

 

そんな風に歴史に翻弄されてきた地域に、そんな歴史的に対立してきた2国が、共同で「文化チャンネル」を作った、ということが、どれほどすごいことか、分かると思う。

 

ものすごく端的に言えば、竹島に日韓の文化チャンネルのTV局を作ったり、尖閣諸島に日中の文化チャンネルのTV局を作ったようなものなのだ。

(もちろん、こっちの場合は島だし、居住者はいないし、いろいろと違うけれど!)

 

文化って、その違いによって対立やいがみ合いの種になり得るけれど、やっぱり互いを理解し合うためにとても重要だ。

Arteの番組は、かといってフランスとドイツのものに限らず、ほかのヨーロッパの国についてはもちろん、アメリカだとかアジアだとか中東だとかさまざまな地域の話、自然に関する話題も多く取り上げている。そんなところも好き。

(いちおう、放送される番組の85%がヨーロッパで共同製作されたもの。)

 

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ちなみに、

フランス人とおしゃべりしていると、みんなテレビ局についてはかなり辛口で、「くだらない」「しょうもない」「見ない」とさんざんな言われようなのだけど、

Arteについてだけはほとんどのひとが「良い局」「すばらしい」と言う。それも面白かった。

こらへんは、フランス人がドキュメンタリーとか映画とか、映像作品が好き、という性質的なものもあるのかもしれないけど。(wikipediaのArteの説明を見たら、フランスとドイツで視聴率が二倍くらい違ったので!)

 

まあとにかく、ドキュメンタリーを作る端くれとして、こんな風な豊かな映像で、ゆったりとした編集で、かつ自国に限らずさまざまなテーマを扱うアルテの制作現場には、やっぱりあこがれがあるわけです。

 

日本で番組を作るときって、たいていは「日本人」が中心だ。

でも、世界には70億人もの人が生きていて、そのうち日本人なんて1億2千人に過ぎないわけで、日本人ばっかり見つめていても、「わたしたちがいま生きる世界」が分かるわけないじゃないか、と思う。

それに、移民や外国ルーツの人たちがどんどん増えている現代において、いまだに良く分からないふんわりした定義の"日本人"にこだわるのも、ナンセンス、だと正直感じる。

 

いつか、アジアでもArteのような共同チャンネルを作って、韓国や北朝鮮、中国、台湾、香港やいろんな国の人たちといっしょにドキュメンタリーや放送を作れるようになりたいなあ。

一年間の総括、そのに。

昨日に続き、もうひとつ、総括を。

 

ふたつめにつれづれと考え直したのは、言語について。

 

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フランス語を話せるという事情を話すと、よく「なぜフランス語を選んだの?」と聞かれる。いつも、ものすごく返答に困った。

「バレエやフランス文学が好きで・・・」とか「服飾/モードを勉強していて・・・」と言った、明確で美しい答えを持ったひとたちに、たくさん出会ったことがある。

たとえば国際結婚をしてフランス語を学ばざるを得なかった、というような、これもまた明快な理由を持つひとたちにも、出会ったことがある。

 

でも、私には正直、「これ」と言った理由はなかった。

 

 

本当に正直に言うと、高校の時には、バングラデシュの言葉(ベンガル語)を勉強したくて進路を考えた。

そして、英語に次ぐ第三の外国語として集中して学ぶことばについては、チェコ語とベトナム語とフランス語で、最後の最後まで悩んでいた。

 

その共通点って何なんでしょう。

誰にも答えられないと思う。

私にも答えられないから。。。

 

 

ただ、「英語」ではない、何かを学びたかったのです。

あまのじゃくな性格から、「英語じゃない外国語を話したい!」という思いだけは強く持っていた。

当時はすでにマクドナルドやスタバは社会にありふれていたけれど、Google、Amazon、Facebook、Apple、そしてNetflixなんて、ほとんど存在も知らなかったころ。

なんであれほど無意識に「英語じゃない何か」を求めていたのか謎だけど。。(いちおう、英語も好きです!)

 

最終的にフランス語にしたのは、ラテン系なのでそこからイタリア語、スペイン語への展開が可能そうだと考えたこと。(ドイツ語は英語から展開できると考えた。単純過ぎ。)

スペイン語やロシア語の「巻き舌」がどうしても出来なかったこと。(フランス語のRの発音なら出来ると考えた。)

アジアの言語は、親戚のなかにすでに話せる人がいたので(ここもあまのじゃく)違うところへ行きたかったこと。

国際社会ではフランス語が第二言語と見なされていること。

高校時代、映画にはまっていて、ハリウッドよりどっちかというとヨーロッパのひねくれたエンディングの映画が好きだったこと(たぶんここもあまのじゃく)。

そして、もうひとつ、英語とフランス語が分かれば、アフリカに行けること。

 

ちなみに、数年前からの自分自身への疑問として「なぜアラビア語を考えなかったのか」ということは、少々悔いています。なぜか、思いつかなかったのです。当時。

9.11以降、少なからず戦争やイラク、アフガニスタンなど、意識の中にあったにも関わらず。。

だから、アラビア語やペルシア語、トルコ語など中東の言語をたしなむひとたちへのあこがれと尊敬が、強くあります。

 

ただ、そんな、きれいにひとつにまとめられない、様々な中途半端な理由からフランス語を選び、選んだからにはきちんと話せるようになりたい、と多かれ少なかれの努力を継続して、今日に及びます。

ちなみに、ドイツ語は挑戦したけど英語とぜんぜんちがくて初歩の初歩で挫折、フランス語の壁がすでに厚すぎていまのところスペイン語とイタリア語に展開するまで及んでおりません。。言語というものは、それほど難しい。

(友だちにバイリンガルの子がいるのだけど、彼らってとても言語センスに長けていて、すっといろんな言語の初歩を身につけてしまうの、ものすっごくうらやましい。もちろんみんながみんなじゃないけど。)

 

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フランス語を選んだことを後悔しているか、といえば、まったくしていません。

英語とはまたちがった美しい表現、英語の世界的波及に負けないようにと国をあげて対抗してきたフランスという国の根性、文学や歴史の厚みや哲学、そして、フランス語を学べたことで関われたアフリカの国々との個人的な関わり。

どれも、フランス語を選んだからこそ知ることが出来た。出会うことが出来た。

どれも、わたしのなかの世界を大きく豊かに広げてくれた。

 

でも。

学べば学ぶほど、日本と違う視点を持てば持つほど、感じることは、いかに世の中の規範やルール、秩序が、ヨーロッパ主体で作られてきたか、ということ。

いかに国際社会が、彼らによって良いように扱われてきたか、ということでもある。

もちろん世界史でも学んだレベルだけど、、、

それはいまの国際社会でも、続いていることを、こっちで暮らしていると、肌で感じるのだ。なんか、仕組み上でも、彼らの思考回路でも。

何しろ考え方や仕組みのベースを作ったのが彼らなのだから、そりゃそうだ。

・・・だけど。

なんか、ずーっともやもやもやもやしているんです。

 

中東、アフリカ大陸、ラテンアメリカ、そして東アジア。

 

日本は日本で、歴史がある。

全体から見たら、ものすごく変わった国だと思うけど。外から見てもその特殊さをすごく感じるけど。

でも、大好きな人たちが日々を生きていることを知っている。すてきな視点を持って、社会の中で生きていることを知っている。

 

フランスに強いあこがれも持たずにフランス語を始めて、英語もフランス語もそれなりに使えるようになったからこそ、改めて、世界秩序の中の「強者」(フランスや英語)側ではなく、ひとつひとつの国やひとの声が伝わる世界をつくっていきたいな、と、強く思うようになった。

 

それが、この1年できちんと言語化できるようになったこと。

1年間の総括、そのいち。

不定期になるかもしれないのだけど、2018年から2019年にかけて日本を離れて、仕事も離れて、いろんな意味で、現実とも自分とも幽体離脱をした身から、この1年で感じたことをひとつひとつ、ことばにしていきたいと思う。

 

まず、ひとつめ。

 

歴史。

 

人間の歴史って、なんて短いのだろう。そして、人の一生って、さらになんと短いことか。

 

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公共政策を勉強していて改めてびっくりしたこと。

なんだか人権やらいろいろ進んでるって思われがちな(少なくとも私は思っていた) ヨーロッパだって、基本的に、いろんな社会保障制度は戦後につくられた。

たかだか、70年や80年、へたしたらもっと短い歴史のなかでの話だ。

それにくらべて、

フランス革命とか、「鎖国」とか、「文明開化」とか、

ものすっっっごい昔のように思っていても、実は200年とか300年前なのだ。

いまのおじいちゃんおばあちゃんが80歳くらいまではだいたい生きていることを考えたら、ひいじいちゃん、ひいばあちゃんの時代くらい、身近なものなのだ。

 

ひいじいちゃんとかひいばあちゃんって、世間的には遠い存在なのかな?

でもよく考えると、じぶんのお父さん(お母さんでもいいけど)の、お父さん(お母さんでもいいけど)のお父さんかお母さんだよ。

わたしはアラサーと表現される世代の人間だけれども、両親、祖父母ともに健在だ。そのさらにもうひとつまえ、を想像することは、そんなに難しくない。

 

や、もちろん、生身のおじいちゃんおばあちゃんや、とうさんかあさんを目の前にして妄想はさすがに出来ないけれど、昔のアルバムなんかを見せてもらうと、おじいちゃんやおばあちゃんであっても、ぴちぴちしてて、人生の選択肢に迷っていて、なんていうのが、写真から透けて見えてくる気がする。

じっさい、だれもが子どもであった時代があって、年を重ねてきたわけだし、男であり女であり、人間なのだ。

じぶんの人生から死ぬまで(死んだあとも?)逃れることの出来ない、人間なのだ。

 

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ヨーロッパって、地震がないこともあって当たり前(ではないけど、日常的)に、すごく古い建物が残っている。

私が前に住んでいたアパルトマンは17世紀のものだったそうだし(石造りの階段はななめにすり減っていて、5階だった住まいも床そのものが傾いていた)、今住んでいる家も、おそらく100年以上は経っている。

 

だから、「歴史」を感じる。日常的に。

 

それもあるのかもしれない。

日本の街からは、歴史のにおいがほんとうに、消し去られてしまったのかもしれない。街を歩いていて、たとえばスーパーから家に帰るとき、歴史に思いをはせる機会は早々ない。

(フランスだと、歩いているだけでも「17世紀」「18世紀」とかの建物ばっかりだし、実際文字でさえ目にする機会が少なからずある。)

 

歴史のにおいがある、なしに、関わらず。

歴史は歴史。

起きたことは起きたことだ。そんな中にいま生きるひとは、どう生きる?

 

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小さな村の生物博物館で、ミイラの作り方を知り、ミイラを見て、あらためて、歴史の中の自分たちに思いをはせた今日でした。

 

そう。でもね、だから。

 

1945年以来、日本自体(国内)では戦争が起きていないのだけど、だからいま生きていて社会で活躍(活動)している人の多くは「戦争を生身で感じていない」わけだけど。

それって人間の人生が短いから、っていうだけに他ならない。

 

いますごく思う。

フランスと日本の圧倒的な違い。

その違いが何かっていったら、

フランスは、たとえブレグジットが起きても、たとえトランプとの仲がすごく悪化しても、ヨーロッパ大陸では「早々簡単に戦争が起きない」状態になっているの。

フランスとドイツってずっと犬猿の仲で、言うなれば日本と韓国のような感じで、近いし、近いのに違うから、惹かれあい関わり合い反発しあうような間柄なのだ。

でもなんでフランス・ドイツはいま違うかと言えば、

いろんな反省を積み重ねて、彼らは歴史に向き合って、反省し、EU(EC)のような協定を少しずつ少しずつ積み重ねてきたから。

もう二度と起きないかといったら約束は出来なくても、かなり、いろーーーんなことがなければ、ヨーロッパ大陸で戦争なんか、簡単に起きないと思う。

 

それに対して日本は?

 

第二次世界大戦後、少しでも解決に向かったことがあっただろうか。

日本と中国と韓国と北朝鮮、そして台湾と香港。タイやベトナムなど東南アジアの国々。歴史を清算したか。あらたな一歩を踏み出したのか。

 

清算もせず、一歩を踏み出しもせず、なんとなしに生きて、いまを過ごしているのが私たちなのだと思う。

 

ドイツの歴史教育を知ったら、日本の歴史教育って何なんだろう、と思ってしまうのだ。

 

 

メディア事情の備忘録。

いま、日本とフランスのメディア事情について比較をしていて、おもしろかったので、ひとまずざっくりここにメモ!

 

・2019年3月時点で、日本の29歳以下男性 のスマホ所有率が100%(内閣が実施している耐久消費財普及に関する調査より)。100%って、びっくり。ちなみに女性だと96.6%。ちなみに全体だと55.7%。これはまあ、そのくらいかなと思う。

・一方同時点でのテレビの所有率は、全体だと90.5%。やっぱり日本でテレビはかなり一般的なんだな。ちなみに同じく29歳以下だと、男性は88.6%、女性が84.5%。

やっぱり、いまではテレビよりスマホの時代なのだな。というか、別にテレビがなくてもスマホさえあれば面白い動画も映画も(なんならドラマも)、NHK以外は基本的に全部見れちゃうものなあ。

 

フランスでも同じような傾向があるのだけど(スマホがかなり普及、テレビも相変わらず所有率は高い)、面白かったのが、フランスでは、管理職(高給取り)のひとたちのほうがテレビ離れ進んでいるそう。スマホの普及の点でも、テレビ持ってない率にしても、職人業の人たちよりも高い。

ちなみにここで注意なのは、フランスでは日本と違って「見逃し再生」のサービスがすごく普及しているので、たとえテレビで見られなくてもほぼ当たり前にその局のサイトやYoutubeやDailymotionなどのプラットフォームで見ることが出来る(タダで)。

 

20世紀はメディアの世紀と言われていて、ラジオがあったところへ、映画、テレビ、パソコン、、、と発信・受信の幅がものすごく広がったそうだけれど、21世紀はなんの時代になるんだろう。とにかくスマートフォンの拡大率は、フランス・日本ともにすさまじい伸びで(グラフ見るだけでも面白い)、きっとこれからネットフリックスやアマゾンプライムなどが、いっそうコンテンツ面でのシェアが伸びていくのだろうな、と思う。

日本のスマホ普及率などいろいろまとめている総務省の資料↓

http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h29/pdf/n1100000.pdf

フランス↓

https://labo.societenumerique.gouv.fr/wp-content/uploads/2018/12/barometredunumerique2018.pdf

 

とにかく、YoutubeにしろアマゾンにしろネットフリックスにしろTwitterにしろ、アメリカってやっぱすごいな・・・と思わざるを得ない、今日でした・・・。

 

職業病なのかも知れないけれど。

日本のテレビの報道畑で、これまで、名もない(わけではないけれど、あくまで組織の一職員)ディレクターとして働いてきて、最近、自分自身について考えること。

 

何らかの社会テーマに関する番組や企画を作るとき、表に出る3分や5分の100倍以上、取材をする。

 

取材は、私のやり方だと、まず

キーワードをネットで検索して最近話題になっていることを把握する、

⇒そこから知った著名人・研究者の著書や発言を探る、

⇒新聞記事のキーワード検索でひっかかったものを片っ端から読む、

⇒その上で知った著書を読む。

⇒この上で、じっさいにそのテーマに関わる人と出会うために、現場を訪ねる。

同時並行で進む場合もあるけれど、基本的に、人や現場を訪ねるのは、自分なりに納得してからにしている。

もちろん、実際に現場を訪ねて改めて知ったキーワードや情報をもとに、前のプロセスに戻ることは多々ある。それでも、自力で得られる情報を自分なりに探して咀嚼してから生身の人に向き合うことが、最低限の礼儀だと考えている。

そうして、出来るだけいろんな人の意見を聞くようにしている。なんでかというと、ロケという現実社会にカメラを向ける作業の中では、少なからず軋轢が生まれることがあるから。

とくに、被写体である相手側が複数人いるグループだったりする場合、ぜったいその中の一部はロケに納得しなかったり、メディアへ不信感を持っていたり、そもそもグループに不満を持っていたりする。どれほど素晴らしい取り組みをしている組織であっても、「ここにいる全員ハッピー!」「全員大満足!」みたいな現場って、いままで、出会ったことがない。

だから、私は、時間の許す限り、関係者全員に声をかけ、少しでも思うことを聞き出せるようにしたい、といつも思っている。(正直これは、現実的な時間の制限などもあって必ずしも毎回できているわけではない。でも、いつも、心がけている。)

 

そういうプロセスを繰り返してきて最近思うのは、物事は多面的であると言うことだ。ある人にとって当たり前に見えている世界は、少し角度変えてみると全然違って見えることが多々ある。というか、世の中のほとんどすべての出来事が、そういうものだ。

 

たとえば、「安くて質のいい物」は、多くの人が喜ぶ。でも、それは、作り手側が安く買いたたかれているからなのかもしれない。

「美しい自然」は、人から愛される。ただ、その自然は本当に "自然” なのか。作り込まれた人工のもの、もしくは本当の自然に害を及ぼしていないのか。

「コンビニ」も、現代社会の暮らしを力強く支えてくれていて、もう、コンビニなしの生活は考えられないくらい、日々の生活に浸透している。でも、背景にものすごい量のプラスチックゴミや食糧廃棄がある。

 

「いのちはたいせつ」だと多くの人が言う。「一寸の虫にも五分の魂」ということばもある。でも、ひとはゴキブリを見たら退治するし、害虫は駆除される。言うなれば害虫だって、単純に生きようとしているだけなのだ。

 

こういう風に考えていくと、あたまのなかがぐるぐるしてくる。でも、企画を作るときには自分なりの筋を持たないと、構成が出来ない。

なので、わたしはあえてあたまのなかをぐるっぐるにして引っかき回してから、ものすごくシンプルに立ち戻って考え直す。その上で、自分なりの「視点」をみつける。

こうしておくと、編集や構成の際にいろいろな人から突っ込まれたり、反対されたりしても、自分自身がぶれないので、個人的にはとても大事なプロセスだと思っている。(ただ、信念を持つことと頑固であることは違うので、もっとよい意見や自分が盲点だった場合には、指摘を受け入れられるような謙虚さと柔軟さも持ちたい。これは、いまも日々修行中。。)

 

だから、(この仕事自体は大好きだけれど)自分の職業であるメディアについてもテレビというフィールドについても、かなり批判的だ。いまの仕組みにも、納得はしていない。というか、不満だらけだ。だから、たまに息苦しくなる。

 

ここのところ、ネットで話題の「NHKから国民を守る党」そして「全裸監督」について、もやもやと考えていて。

「N国」も、その存在はものすごく多面的だ。彼らの主張がすごくシンプルだから取り上げられがちだけど、それ以前に、政治のシステムはすごく複雑で、民主主義ってなんなのか、政治家の仕事ってなんなのか、きちんと理解をした上で、彼らの言葉を受け止めなくてはいけないと思っている。

ネットの時代だとそれじゃ遅すぎるのかな・・・って思ったりもしたのだけど、でもやっぱり、いったん立ち止まって、ほかの角度からも見つめてみることは大事だと、そしてそれは「私たちがやらなくてはいけないこと」なのではないかと、私は思う。

 

「全裸監督」は、とにかく、ネットフリックスの日本への本格的な到来だ。テレビや既存のメディアがいかに時間をかけて自分たちの "出来ないこと" を(知らず知らずに)増やしてきたのかが、とても浮き彫りになっている。クリエイティブという点で(内容すべて含めて)本当、いろんな意味で面白い。

なのだけど、やっぱり、ネットフリックスがネットフリックスでやることと、メディアがやることは違う、と思っている。

もちろん日本のメディアでもドラマやエンタメなどたくさんのコンテンツが作られているし作られてきたけれど、本質的に、テレビやラジオの根幹は「報道」だ。世の中で起きていることを、きちんと検証し、わかりやすく正確に伝えること。人が考える判断材料を提供すること。視聴率を追いかけるのではなくて、視聴率に追いかけてもらえるような信頼性を得ることが、いまやるべきことなのではないか、と思う。

 

まじめなつぶやきでした。

皆さんはどう思いますか。

文化について、とりとめもなく。

文化というものは、面白い。

どこの国にも、いい人もいれば悪い人もいるわけだし、社会の仕組みはどこでも似ている部分が少なからずある。

(たとえばパン屋さんはどこの国でも早起きだし、便利屋さんみたいな怪しげだけど困ったとき便りになる人ってどこにでもいるし・・・。私の業界で言えば、これまで出会ってきたさまざまな国のジャーナリストは得てして好奇心が強くて多様性に寛容、カメラマン・音声マンはちょっと野性的な男性が多い印象がある。)

それでも、その国ごとの「文化」は、似ている部分があるとしてもなんだか全然違うのだ。

朝鮮半島・中国・日本(そして台湾や香港も)は、ヨーロッパの人にしたら同じにされがちだけど全然違うし、アジアからしたらイタリア人・フランス人・スペイン人などの区別は正直けっこう難しかったりするけど、正確に言えば気質も見た目も全然違うわけで。

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そんな中で、たとえばフランスと日本でも、似ている部分がある一方で違う部分が少なからずあるわけだ。

おととい記事を書いた芸術家のA.K.さんは、それを農耕文化と狩猟文化の違い、と話していたのが面白かった。

日本はもともと農耕、集団で生活している。土着の民族であり、共同体の中で生きる。

フランスのようにヨーロッパ大陸の国々は、狩猟、より良い土地や暮らしを求めて戦い続けてきた。

オランウータンとニホンザルの違いでも説明してくれたのだけど、こういう視点で考えたことがなかったから、新鮮だった。

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あと、香水の話。

香水って、つきつめてみれば単なる水。もちろんさまざまな香りがあるけど、3~4こ嗅ぐともうだんだん匂いなんて分からなくなってくる。

しょせん、器(ガラス瓶)と、プロモーション(イメージ作り)の結果なのだ、と。

それは確かに。みんながランコムとかディオールとかシャネルなどのブランド香水を買うの、もちろん匂いが好きというのもあるかもしれないけど、CMで流れる美しい女優や風景に惹かれるあこがれによるところが多い気がする。

そんななかで、香水の調香師から聞いた話をおしえてくれた。じつは最終的に人間が惹かれる匂いというのは、どこか腐敗した匂いなのだと。それは生まれる前の子宮の匂い、母親の匂い、体臭、体液など・・・。

これも確かに、と思った。

じっさい、男女の関係って、出会ったときにびびっと来たり、お互いを好きになるとき、「におい」って重要だったりすると思う。

わたし自身は男性とつきあった経験がそんなに多くないけど、夫の前に、人生で長くつきあったひとは、いちばん好きだったときはその人の鼻息が好きだった。なんだか、マスカットのような匂いに感じられたのだ(・・・と書くと変なひとか・・・?)ちなみに、別れる前にはちっともその匂いが感じられなくなった(それも根拠はないのだけど。単に近寄らなくなっただけかもしれない。。)

夫は、形容しがたいのだけど、やっぱり私はその匂いがとてもすきだし、嗅ぐと安心する。夫もわたしの匂いがすきとよく言う。それは、石けんとかシャンプーとかそういう匂いもまじりあっているのだけど、その人ならではの匂い、ということ。

 

こういうことって、あまり話しはしないけど、ぜったいにあると思う。

人間の相性、好きになる人って、遺伝子レベルで合う・合わないが決まっている、という話は聞いたことがあるけれど、それに通じることだと思う。

 

人間だってしょせんは動物なのだ。

そして、動物である人間はけっして「きれい」ではない。文明の進歩によって ”清潔” に保つ術を身につけただけだ。そして、「きれいごと」を言う術も。

 

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文化や表現って、そうした「きれい(文明)」と、「動物(本能)」の狭間の、屈折した部分からうまれる面もあるのではないか、、、と思っている。

 

たとえば単純に映画にしたって、特にヨーロッパのもののほうがそうした闇に目をむけた作品が多い印象があるのだけれど、

日本でも大ヒットしたフランス映画「アメリ」だって、正直言って決してかわいいだけの映画ではないし、

スペインの巨匠ペドロ・アルモドバルの映画は、かなりセクシャルで癖が強い(「トーク・トゥー・ハー」等・・・)。

最近では#MeTooをきっかけにウディ・アレンの養女への性的虐待が議論を呼んでいたけれど、そうした疑惑は昔からあった。

私は高校生の時に見た「戦場のピアニスト」に大きな影響を受けたのだけれど(第75回アカデミー監督賞や主演男優賞を受賞、第55回カンヌ映画祭でパルムドール受賞)、当時、その監督ロマン・ポランスキーが、「”少女への性的虐待”による逮捕・収監の可能性があるためアメリカにわたれず授賞式不参加」という事実にものすごくびっくりした。

 

けっして、「芸術のためには闇が必要だ」「性的虐待も肯定される」と言いたいわけではない。けっして、ない。

でも、人間の闇を「表現」というかたちで昇華させている部分、そこから文化が形作られている面も、社会には少なからずあるのではないかと思う。