森の日記

見たこと、知ったこと、感じたこと。

7か月ぶりのつぶやき。

すっかり離れていた。このページを開けることから。

この間、いろいろなことがあって、そのこと自体も、それに対して自分が感じたことも、言語化できなかった。

社会で起きているいろいろな事象や出来事や付随する余波になんだか気持ちが乱れて、自分自身の内面・外面で起きている変化にも気持ちが乱れて、でも、なんてことない顔をして日々を送ることだけを続けようとして、いろんな感覚に蓋をしていたところもある。

 

■□■▽□■△

今日はとても良く晴れた日で、すっきりとした冬晴れの空に雲がほとんど見えない。いまは午後4時近く。だんだん夕方に近づいていて、青空の一方で太陽がちょっとずつ黄色みを増している。

 

緊急事態宣言下だけど、特に大きな変化は町には見当たらず、人々は当たり前のように皆マスクをしていて、相変わらず電車の中で聞こえる会話は少なく、多くの人が手に持った携帯をのぞき込んでいる。いまは窓に面した建物の7階にいるわたしもそのひとりだった、ついさっきまで。

 

なんだか本が読めなくなっていた、ここ数か月。読んでも頭に入ってこなくて、もやがかかったような理解と感性で受け止めている感じ。

映像にも興味を失い、テレビ番組もサブスクのチャンネルもYoutubeからも離れ、自堕落にSNSを眺めては、生産性のないパズルゲームで時間をつぶしていた。

 

でもたぶん、外から見た“わたし”は、これまで通りに見えていたんじゃないかなと思う。そう繕っていたから。過去の「内面の貯金」から削り出して、何も変わらず生きている風を装って。

 

さっき、やっぱり無気力で、ちょっと気になって開いたインターネット上の新聞記事の中で、ふっとささることばがあった。

田中克彦さんという言語学者の文章。

 

『差別は、言葉なくしては生まれません。言葉には、混沌(こんとん)とした、つかみどころのないものに「刻み目」を入れて分類する働きがあります。たとえば、虹の色はそれぞれの境目には区切りはないのに「7色」ということにされている。こうした単純な分類は熟慮する必要がなく、人々が受け入れやすい面があります。』

 

ああ、これだ、と読んで思った。ここ半年近くの自分のもやもやしてはき出せなかったさまざまな感情。

自分の中が混沌としていて、でも普段であれば、それでも無意識に自然とその混沌からなんとなく自分の言葉を切り出せていたのが、不意に出来なくなってしまっていたんだ。

世の中には「言葉」があふれていて、“それっぽい”言葉もあれば、人を傷つけるような短絡的な感情で吐き出された言葉もあって、その混沌とした言葉の海の中で、自分の感覚を見失っていた。分からなくなって、正解なんてないのに正解がわからなくなって、たんたんと日常をこなしていた。

 

そう気づけて、なんだかふいに、癒やされた気がして、すごく久しぶりに開いたこのブログに、言葉を刻みたくなった。そんな夕方。

結婚2

そんなある日。

共通の大学時代の友人の結婚パーティーの前日。

 

RからLINEで結婚式がなくなったと言う連絡がきた。

 楽天が提供する、無料の、泣き崩れるパンダのスタンプと共に送られてきたそのことばに、「は?」と言う思いしか、浮かばなかった。

 

詳しいことは明日話す、と言う彼女に深く聞けぬまま、友人の結婚パーティーへ行った。

そこでは相変わらずきれいな彼女がいて、ドレスも髪型も自然なメイクも本当に似合っているな・・・とわたしは若干の劣等感とともにまぶしく彼女を見ていた。

 

そして、帰り道。

他の友人たちに「次はRだね~」と声をかけられ、「実は・・・なくなりました」と言った彼女。

 

「えっ・・・!?」と前のめりに食いつきそうになる友人たちに、「詳しくはまた・・・」「いまはちょっと、そっとしておいて」と濁し、そのまま静かに別れた。地方に暮らす友人たちは、結婚式の余韻と混乱の中でそれぞれ帰って行ったのかもしれない。

 

■□◆□■

わたしとRは、結婚パーティー帰りの装いのまま、駅近くのカフェに入った。そこで、Rの恋人(婚約者)の素行、Rの動揺と混乱、そして、結果として破談(白紙)にした決意を聞いた。

それに対して何が言える?

そんなことが現実にあるのか、あたまがくらっとした。結婚てつみかさねの結果だし、あんなに何年間も一緒にいて、幸せそうだったのに。かけることばがみつからず、ぱっとしたことも言えず。天気の良い恵比寿の窓際のカフェで、それでも会話を続けていたことだけ覚えている。

 

ただ。嫌でも認めなくてはいけないのは、心のどこか片隅で、少し、ほっとしている自分がいたこと。「わたしの大好きなRが帰ってくる」と、思った自分がいたこと。。。

 

それは、フランス人の恋人が出来て以来、「彼氏ファースト」になり、友人たちの前でもべたべたいちゃいちゃするRではなく。理知的で、努力家で、冷静で優しい世界へのまなざしをもったRが、“わたしのライバル”として、帰ってくる、と思ったのだ。

 

 

結婚をするのだから、大好きな彼と両思いになれたのだから、仕方がない。 

そう考えてどうにか納得しようとしていた、彼女の“変化”。その彼女が、元に戻るかもしれない・・・。私自身は表向きは彼女の悲しみに共感しつつ、どこかほんのすこし、うれしさも感じていた。

結婚

Sと別れて、とてもすっきりした。

一度復縁を自分からお願いした事実は事実だったけれど、

別れて復縁するまでの半年間、

そして、

復縁してから本当にちゃんと別れるまでの半年間、

どちらもあったことで、“彼の存在そのもの“が、自分の中での甘えになっていたことを理解出来たから。

 

彼(恋人)という存在がいないと精神的にぐらぐらしてしまうというのは、それこそ、自分が自分として両足で立てていないからだ、と理解出来た(彼がいようがいまいが、ほかの人とのつきあいには関係ない)し、Sの自分本位な言動に振りまわされるのはもういやだった。

 

Sはわたしを振りまわそうなんてまったく思っていなかっただろうし、彼は彼で必死だったのだと今では思えるけれど。

でも、当時、東北の被災地で、「生きていく」ことだけでも必死な環境で生きようとしている人たちに日々取材を通して接していた私には、彼の『この環境では自分が輝けない』だのという理屈や、周囲を振りまわす言動に、まったく共感できなくなっていた。

生きていられることだけでも本当に有り難いこと。それが五体満足で、お給料をもらえて、帰る家があって、家族全員無事でいることが、どれほど奇跡なのか、と、毎日毎日、考えていたから。

このころのわたしは、取材帰りのバスや電車の中でも、家に帰った真夜中でも、よく泣いていた。自分には帰る家があって、仕事もあって、家族も無事であることに、それと対照的な、現実の厳しさに、気持ちの折り合いがつかなくなっていたのだと思う。

 

〇●゜〇●

Sと別れて、自分としてはすっきりして、男しかいないような職場だったので髪もばっさりと切って、割り切って仕事に向き合うようになった。恋愛なんていらない、と思ったそのスタンスは、わたしにとってはとてもすっきりとしていた。

 

Sがどんな思いで東京駅で紙袋を受け取ったのか、どんな思いでその中身(婚約指輪も、そっと洋服類の間にはさんで返した。。。)を片付けたのか、それは、もう、一生分からない。分からなくて良いと思っていた。

ただ、友だちとして、ひととしてお互い一定の距離をもってつきあって行ければいいと思っていた。 

人間としては尊敬していたから。

そして、自分に愛情をそそいでくれたひととして、いちばん私が不安定だったときにそばにいてささえてくれたひととして、とても大切に思っていたことは事実だったから。

 

〇○●゜〇

 

仕事における精神面は、知らず知らずにどんどん負担がかかっていっていた(それはまた別の話)が、職場の人とはからっとつきあえていたし、恋愛というモノから距離を置いた数年間は精神的にも楽だった。

 

▲▽▲

そのころ。

わたしがSと別れ、仕事に邁進していたころ。

友人Rは、ついにフランス人の浮気性だったボーイフレンドと別れた。というか、新しい彼が出来て、つまり、“乗り換えた”。

それはわたしたち周囲の友人たちとして後押ししていたことでもあったので、わたしたちは喜んだ。相手は、大学時代からRが「素敵」と言っていた、仲の良いグループの中のひとり。Rはわたしと同じく地方に勤めていたので、彼らは遠距離になったわけだけれど、円満ぶりは周囲にも伝わってきていたし、Rはとにかく、ずっと前から憧れていた相手と結ばれて、とても幸せそうだった。

 

 

▲▽▲

 

 

順調にふたりの恋愛は続いていて、彼らは、つきあい始めて3年ほどで結婚に向けた準備を始めていた。

Rはわたしよりも1年早く東京へ異動することになったので、結婚に動く前に、Rはわたしの働く地方に遊びに来てくれて、一緒に旅をした。そしてわたしも、Rが異動して東京にうつる前に、Rの働く地方を訪ねた。

 

Rが結婚することに一抹の寂しさも抱えていたけれど、それよりずっと、素直に、Rに幸せでいてもらえて嬉しい、と思えたし、そういう風に、お互いの人生をより素直に共有できる関係になれていたことを、とても嬉しく感じた。

そう思えたのはたぶん、大学時代のようなちょっとしたライバル関係のような感情からも抜け出て、より純粋にそれぞれの人生を応援し合う関係であると思えるようになっていたからだ。そして、わたし自身、4年近く誰かとつきあって納得して別れたこと(そして仕事に邁進していたこと)で、自らの現状に納得・満足できていたからなのだと、思う。

 

▽▲▽

そして仕事を始めてまる5年がたった2016年の夏。

わたしも東京へ異動することになった。

 

異動してすぐあとの9月に、Rの結婚式が予定されていた。

R自身の入籍はすでに6月に済ませていた(そのころ東京駅でランチしたことを覚えている)ので、何にも問題なく、楽しみな結婚式だった。

 

そんなとき。

わたしと同じ異動のタイミングで、なぜかイレギュラーに同じ東京へ異動となったのが、現在の夫だった。

夫との関係は、これまた別の話だけれど、異動直後に、とんとんと、つきあうことになった。初任地の同僚たちは、日夜問わずに苦楽をともにしていた仲間でもあって、夫とはすでに3年職場でダメなところも良いところもお互いさんざん見ていたし、知らず知らずにお互い共感していたところが多かったから。

つきあい始めたときから自然と結婚の話になった。

前の彼Sと別れたとき、「もしかしたらわたしはもう、誰とも結婚できないのかもしれない・・・」と、本気で思った(それほどSはわたしを許容してくれたから)。

「だったら32歳まで自由に仕事して、その後はお見合いでもしようかな(なんで32歳なのかは分からないけど・・・)」なんて真剣に考えていたので、自然と、気持ちがそんな風に向いていったのは自分でもびっくりだった。

 

Sと別れて2年以上経っていた。未練なんて何もなかった。

 

Rの結婚も楽しみで、自分の結婚も見えてきて、すべて順調そうだった。

卒業後3

日々に忙殺され、且つ、日常に動揺していたら6月になっていた。。

 

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前回の続き。

後味の悪いまま、すっきりとせぬまま、指輪を受け取ったわたしは、それでも、Sが東京に戻った後、なんだかんだ興奮していたと思う。

初めてのプロポーズ。

誰かに、「一生一緒にいて欲しい」と求められたのだ。それはやっぱり、純粋に、嬉しい。試しに指輪をはめてみたりした。恋人同士のおそろいアクセサリー、といった文化に縁遠かったわたしにとって、くすりゆびにはめる正真正銘初めてのゆびわ。

だけど、その一週間後、Sは再び転職騒動を起こし、そして、あっさりと周囲の反対に流されて断念する。今回は、転職先からの内定までもらい、ほぼ「退職は時間の問題」というところまで話を進めたにも関わらず、周囲(家族)の反対にあった、たった一日で、転職を諦めたのだ。

 

わたしは彼の”寝返りの早さ”に、心底呆れた。

 

どれほどの覚悟で転職をしているのか。中途半端なら、転職先だった企業にも迷惑だ。

煮え切らないくせに、その自分の“煮えきらなさ”や”ふがいなさ”を周囲の環境のせいにしようとする、Sの甘い姿勢を受け止めるのは限界だった。年末にその騒動の一連を逐次報告されながら、わたしの心は静かに「あ、やっぱりこれ以上、無理だ」と思った。

 

誰にも言わなかったけど、自分の中の決意は年末についていた。

 

▼△▼

2014年の春、たぶん5月ころ。わたしたちは別れた。

わたしが東京に出張に来ている折だった。わたしは、彼と約束さえしていなかったのに、その出張にあわせて、紙袋を持ってきていた。

自分のアパートに蓄えられていた、彼の私物たち。そして、指輪も。紙袋を持って出張に来て、ずっとホテルにおいてあったそれをわたしながら、東京駅でお茶をした。

この日は、ひさしぶりに、わたしがわたしらしく、彼の前でも冗談や、自分の興味の赴くままに話すことが出来た日だった。東京駅の駅ビルの上のほうの喫茶店で話していて。窓の外、むかいの古めの駅ビルの窓から布団が干されていて、「あのおうちのひと、どうして布団ほしているのかな」なんてしょうもない話を彼Sにした記憶がある。

 

わたしたちは笑顔で別れた。彼はもう、「チャンスをくれ」なんて言わなかったし、わたしも「きらい」なんて直接的なことは言わなかった。穏やかな時間を過ごして、なんだか、そのままデートに行けそうな、そんな空気で、別れた。

 

だから、彼は友だちに戻ったのだと思っていた。その後も誕生日には気が向いたらメッセージを送ったし、彼からも何かの折に連絡が来たりした。その程度の距離感でちょうどよかった。

卒業後2

卒業して働いて2年ほどたって、わたしたちは別れた。

東京駅で、仕事を抜け出てきた恋人Sと、東北に戻る直前のわたし。東京の夜、高層ビルの横で。

円満、と書きかけたけど、このときは円満だったのか、ちょっとあんまり覚えていない。でもたぶん、わたしはいらいらしてたし、彼は仕事を抜け出てきていて、ぎこちなく、あわただしく、若干わたしの一方的な別れだったのかもしれない・・・いま思えば。

 

■□■

東北に戻り、日常に戻った。

しかし、まさにその直後の一週間で、自分のキャパを超えた大きな刺激と試練に直面した。

  

全く恋愛感情を感じていない年配の人に(本心じゃないかもしれないけど)お酒の延長でそれまで受けたことのなかった直接的な誘いを受けたり、

帰り際の歩いている道ばたで、それまで全く色恋沙汰の対象ですらなかった男の先輩に突然キスをされそうになったり(拒絶したから未遂だったけど)、

うっすら好意を感じつつスルーしていた相手から、ついに直接的にデートの誘いを受けたり(とっさに”聞こえないふり”というずるい方法をとったけど)、

まったく恋愛と無関係だと思っていた同僚からラブレターをもらったり(これはさすがにびっくりしすぎてリアクションがとれなかった)、、、

 

断じて、わたしはもてるタイプではない。

なぜ、Sとの別れの直後の一週間で、こんなにたくさんの出来事がいっきにおこったのか。。。

人生って不思議だ。

 

いずれにせよ、3年以上つきあった彼と別れたこと(別れそうだったこと)さえ、誰にも言っていないにもかかわらず、別れた直後の一週間で連日そんなにも刺激にあふれた出来事に直面したわたしは、動揺した。

 

動揺して、Sを求めた。。。

 

ひとりでいるより、誰かといる方が良い。誰かの彼女、でいたほうがいい、そのほうが安心だ、と、思った。

これも、いま思えばなんて自分勝手な・・・と思うけれど。免疫がなかったのだ。そして、混乱したのだ。。

 

別れ話をしたちょうど一週間後の週末の夜。

わたしは何の予告もなしに東北から東京に戻り、東京に着いてから、Sに電話をした。そのとき、職場のひとと仕事終わりに飲みに出ていたSは、電話に出てくれ、さらに、その飲み会の後、わたしの予約したビジネスホテルまで会いに来てくれた。

 

「ごめんなさい。もう一度、つきあってください」。

そんな、自分勝手なことを言ったわたしに、Sは、泣きながら、笑顔で、喜んで、承諾してくれたのだった。本当に、涙を流すほど喜んでもらっても、いいのだろうか。もう一度つきあう、という結論でいいのだろうか。うっすらとそんな疑問が脳裏に漂っていながら、それでもわたしは、安堵していた。一度は心の底から好きだと思った彼が、再びわたしの思いに応えてくれて、再び”彼氏”が出来たことで、やって来た多くの人たちは明確に応えずとも、必然的に応えずとも、答えになるから。

 

Sに対しても、思いを行動に移してくれた人たちに対しても、いま思うと、まったく誠実ではない対応だ。。。

 

そんな自分は、罰が当たってしかるべきなのかもしれない。と、いま、書いていて、思う。

でも、そのときは、自己を保つのに必死だったのだ。仕事ですでに自己をぐらぐらと揺らがされていて、それでもしがみつくように取材や報道をかたちにし続けて、「頼れる支柱」となる、パートナーが、当時の自分には必要だったのだ。と、思う。

 

 

□■□

結果として、一週間の別れを経てヨリを戻したわたしたち。その後は、穏やかに過ごせるようになった。

ヨリを戻したのは11月ころ。それから、再び週末をいっしょに過ごすようになって、その年のクリスマスイブは、わたしの暮らす町に彼が来てくれた。当日になって予約したフレンチのレストランは、こぢんまりしていて、当日予約にもかかわらず食事はおいしくて、久しぶりにけんかもなく笑顔で会話しながら食事が出来て、「ああ、彼と別れなくて良かった・・・」としみじみ幸せをかみしめた、そのクリスマスイブの夜。

 

わたしのアパートに帰ってきた後、おもむろに、突然、Sは、婚約指輪を取り出したのだ。「別れていたあいだに、君の暮らす町の近くで手作りしたんだ」と。 

 

わたしは動揺して、出された指輪に対してとっさに「受け取れない」ということばが脳裏に浮かんだ。

 

「受け取れない」っていうことは、プロポーズを受けかねる、ということだ。

 

さすがにそれを言葉に出来ず、「えっ・・・・・」と固まったわたし。

引っ込めなくなった、S。

 「うーーーーーん・・・・どうしよう、いまは何も言えない・・・けど・・・うれしい・・・けど・・・」というわたしに

「・・・持って帰るのもなんだから、受け取っておいてよ」というS。

 

けっきょく、婚約指輪を、こうして切れ味悪い感じで受け取った。

 

受け取って、切れ味悪いままに、かといって決裂もせずに、しかし幸せだったクリスマスイブのディナーの余韻はふっとんで、眠った。都合の悪いことは、眠って忘れてしまおう。といわんばかりに、寝た。

 

過去を思い返し、自分の煮えきらなさに、いらっとする。ただ、当時、キャパの限界だった。どう振る舞えば良いという見本もない人生の岐路を突きつけられ、途方に暮れたし、一方で目指す方向は明確過ぎて、迷えない自分にショックを受けたところもあるかもしれない。

卒業後

卒業後、わたしは、研修の結果、東日本大震災の被災地に配属された。

そして、その地に生きる方々と、仕事をとおして深く関わるようになった。

 

仕事の「いろは」も分かっていない新人が、マスコミという大きな影響力のあるプラットフォームを背景に、被災地というセンシティブな場所に土足で踏み込む、ということは、とても暴力的だと思う。

もちろん、キャリアの長さは、「仕事」を前に、関係ないけれど。

 

ベテランのジャーナリストたる人たちが、被災地の混乱に乗じて、いかに"被災者”の善意を踏みにじり、心に傷を残していったかも、目の当たりにした。

 

この地とそこで出会った方々に、本当に、いのちや人生という、根源を教えてもらった。

 

新人・ベテランは、こうした場面ではなんの意味もないと、肌で感じた。

 

被災地で、マスコミの一部として働く「業」をひしひし感じながら、新人としての、生き方を模索することになった。

 

ただ、「人間」としての在り方が、問われていると思った。

 

その日々は、たぶん、普通の社会人としてキャリアを重ねるのとは違った苦しさがあった。

実際、新人時代のわたしは、泣きながら、その涙の理由も分からず(いま思い返せばショックによるのだと思うけれど)、涙に無理矢理ふたをして仕事をしていた。

 

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卒業をしてからも、

別の県に配属された親友Rとの友情も、

東京の本社で働き始めた恋人Sとの恋愛も、続いていた。

 

親友Rとは、ときおり手紙のやりとり。 

恋人Sとは、Sが時間を見つけて会いに来てくれることが多かった。

 

わたしはほとんど東京に帰れずにいたので、Sが東北に来て、自宅でごはんを食べたり、ときにはわたしの取材の送り迎えをしてくれたり、彼なりに、サポートしてくれていたのだと思う。

 

・・・ただ、

Sの、仕事の愚痴が、だんだん耐えがたいものになっていった。

 

お酒にあまり強くなくて、社交的に見えて実は根がシャイなSは、営業といった、日本ならではの強制的なお酒も伴う人付き合いに、ついていけなかったのだと思う。

特に、営業職が花形のような、プレッシャーも大きい企業に就職したから、それはそれは、つらかったのだろう。

 

・・・だけど。

 

 

生きるか死ぬかの被災地。生業を奪われて、あしたはどう生きていけばいいのか見当もつかない被災地。

そんな場所で、歯を食いしばって前へ歩こう、生きようとしている人たちの、生き様や生身のすがたに日々触れている私には、どうしても、Sの泣き言が甘えにしか聞こえなかった。

 

「この職場では自分が輝けない」。

「自分が輝くって何?そもそも、働き始めて1年もたっていないのに仕事の何が、あなたに分かるの?」。

 

「つらい。転職したい」。

「働いてお給料をもらえる仕事に就けていることのありがたみって分かる?石の上にも3年っていうでしょう。その仕事自体のよさも分からないまま、すぐに変えるのは良くないよ」。

 

 

わたしの答えは、おりこうさん、だったのかもしれない。でも、いま振り返ってもわたしの本心だ。

だからといって、Sが間違っているわけでもなかったのだと、いまでは思う。

ただ、気持ちが相容れなかった時点で、Sは、関係を続けていけなかった相手だったのだ。人生における判断基準の根本が、ずれていたのだから。

  

 

だんだん彼の存在を、まるで、べったりと這う "スライム” だと感じるようになった。

 

覆い被さってきて、深呼吸したいわたしの呼吸を妨げる。のしかかってきて、自由にのびをしたいわたしの重しになる。

 

要するに、息苦しくなっていったのだ。

 

仕事に希望を見いだそうとすらせず(もしかしたら見いだそうと努力していたのかもしれないけど)、不満を人のせいばかりにして(もしかしたら自分なりに努力をしていたのかもしれないけど)、挙げ句「自分が輝けない」などという彼。

 

自分が輝くって、なんだよ。

ここでは輝けないって、ほかなら輝けるのかよ。輝くって、なんだよ。

自分が評価することじゃなくて、他者がいて初めて分かることじゃないか。

 

ナルシシズムにあふれた彼の言葉に、わたしは強く反発した。

もちろん、会社組織に飲み込まれる必要はないと思っているし、いまでも私自身、自分の会社そのものにたいして愛社精神なんか本当にまったくない(むしろ恥ずかしさしかない)けど。

 

自分の未熟さを棚に上げる彼に、嫌悪感を覚えるようになっていった。

さらに、転職騒動を何度も起こしては、結局転職に踏み切れない、彼の「煮えきらなさ」も、腹が立った。

 

自分がいやなら、ひとがなんて言おうと、転職しろよ。

 

どんな選択肢であっても応援する心持ちでいるのに、選択に踏み切らないくせに愚痴ばかり言う、こちらの思いをことごとく踏みにじる彼の言い訳に辟易して、どんどん、心の距離は離れていった。

 

宮城県内で引っ越しをした私の新しい家の住所を、Rから聞き出して手紙をよこし、「来ないで」という私に構わず、玄関前にSは来た。

 

(私はけっきょく、家には入れずに彼はマンガ喫茶に泊まったけど。。。)

 

その彼の行動と熱意に感動するひともいるのかもしれないけど(いるのかな・・・。客観的に書いたら、ちょっと怖いと思うけど・・・)わたしには恐怖でしかなかった。

 

そして、

 

「もう(つきあうのは)いやだ」と言ったわたしに対し、即座に「結婚して下さい」と言う彼に、拍子抜けもしたし、若干、引いた。

 

 

え、日本語分かっている・・・?って。

ひとんちのアパートの駐車場で、大声で「けっこんしてください」って。こっちは、怒っているんだけど?って。なんなら別れ話切り出しているんだけど?って。

 

▼△▼

 

本気で別れ話をしたのはそんなときだ。就職から2年が経った、春。

 

家の玄関先にまでやって来た彼は、最終的に、「半年待って欲しい」と言った。

 

「半年で、自分が変わっていないと思われたらしかたないけれど、半年ください」と。

 

その年の11月。半年待って、東京でわたしたちは再会した。

 

仕事を抜け出てきた彼と、東京駅に出てきたわたし。

 

そして、別れた。

それはもう、予定調和のような。

 

書く理由

ここのところ、いまの振り返りの、書くスピードが落ちていた。

 

最初のころは、どんどん湧き出るみたいに思い出が出てきて、思い出をことばにすることで「ああ、こんな風にわたしは感じていたんだな」って思えることが新鮮で、どんどん書けたのだけど。

 

だんだんやっぱり失ったものの大きさを感じるようになって。

どうしてこうなっちゃったんだろう・・・という気持ちが出てきて。

気持ちが重くなって、書くことばが出てこなくなった。

 

 

なんで自分の身にこの出来事が起きたのだろう。

 

苦しくなったとき、気持ちを打ち明けることができる、相談にのってくれる友だちが何人かいる。とてもとてもありがたくて、そうした存在のおかげで私は前を向けたんだと思うんだけど、同時に、「私も ”そっち側” でいたかったな・・・」とも、思ってしまう。

 

 

どうしたら正解だったんだろう。

 

どんな心持でいることが正解なのか、誰か、教えてほしい。どんな対応をすべきなのか、どんな生き方をすべきなのか。自分のいまの結論は間違っているのか?ひとからの問いかけに、それをそのまま問い直してしまう自分がいる。誰かに答えを教えてほしい。でも、答えは自分の中にしかないのだって、わかってはいるのだけど。

 

そうなのだ。答えをみつけたくて、いま言語化しているのだ。

きれいごとじゃない部分も含めて。

 

だから、書かなきゃと思うのだ。ここから。