森の日記

見たこと、知ったこと、感じたこと。

つぶやき

もうすぐ日本に帰るのです。

もうすぐ仕事に帰るのです。

もうすぐ、いろんな現実に向き合うのです。

 

この1年は、なんていっても「アラサー」ならではのあらゆる問題から解き放たれて、ひとりで肩書もなーんにもない「学生」に戻ったわけです。

ときにはふらふらと街をさまよい、日が暮れるのを忘れるほどに勉学に没頭し、食費を気にしてけちけちを節約するような、そんな、不便だけれど切なくて貴重な時間を、7年ぶりに取り戻したわけです。

 

それって、かなりとってもものすごく貴重な時間ですよね・・・

 

どうしても、生きていると(とくに女性は)あらゆる圧力に向き合わなくてはいけない。

「結婚はまだなの?」

「子どもは?」

「老けたね?」

「太ったね?」

等々・・・。

 

ほっといてほしい。

 

そのひとの人生はそのひとだけのもので、親でさえも最後まで責任をとれないわけだし、そのひとの選択がすべてなのだ。

 

と、思っても、現実はそれを許してくれない。

世間体や、仲間内の空気や、「常識」なるものや、いろんなものが、自由に生きることを邪魔する。

 

でも、外国、まったく自分のバックグラウンドを知らない場所、へ行くと、そうした面倒くさいことからつかの間離れることができる。

自分をしめつける呪縛がいかにばかげているかも、気づかせてくれる。

 

外へ行った方が良い。いろんなひとと話した方がいい。

世の中は、私たちが思うよりずーっと広くて、複雑で、豊かなのだ。

 

この世とあの世、の概念について思ったこと。

昨日、友だちとお寿司(前に書いたフランスのおすしじゃなくて、本物!)を食べに行ってきた。

mori-kei05.hatenablog.com

 

とってもおいしくて、なんていうか店内の匂い(空気?)自体が日本で、もうしみじみと(あじとか、イカとか、、、サーモン以外食べてないこと久しく)うれしかったのだけど、お寿司に加えて面白かった発見があったので。

 

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友だちと、「最近映画に行った?」という話をしていて、このあいだ見た「海獣の子ども」の話をしたとき、「日本のアニメって、難しい(おとな向けだよね)」という話になった。

(フランスは日本の映画がとても人気で、特にアニメはかなり人気なので、ほとんどのアニメ映画はこっちでも間をあけずに公開されている。)

 

友だちは同い年なのだけど、前に親戚の4歳の子どもと「未来のミライ」を見に行ったとき、「なんで妹なのに年上なの?」と根本的なことを聞かれて説明できなかったのだと。

www.allocine.fr

それで、「君の名は」なんかさらに難しくて、たぶん子どもだとこんがらがっちゃうよね、という話になって、

www.allocine.fr

「おとなと子どもがどっちも見て楽しめるのって、ジブリくらいじゃないかな?」と私が言ったら、友だち曰く「ジブリもよくわからないところがある」と。

 

どんなところかを訪ねると、

「千と千尋の神隠しで、どうしてちひろのからだが見えなくなったのかとか、不思議な世界に行ったことをどうして親は覚えていないのかとか。トトロで、なんで子どもはトトロが見えるのに大人は見えないのかとか。」

と言う。

 

□■□

それって、考えてみたことのなかった点だったのだけど、確かに日本に暮らしていると、「神隠し」だとか「不意に異空間に行っちゃう」とか、"この世"と"あの世"の境界にある「三途の川」だとか、ジブリを見るにあたっての「土台」があるなあと思ったのでした。

それで、日本だと、座敷童とか神隠しとか、そういう「生者の世界にいる不思議な存在」というものが、小さい頃から身近に感じられる、という説明をして、「ゲゲゲの鬼太郎」を紹介した。

www.toei-anim.co.jp

 

確かに海外で日本のアニメは大の人気で、ドラえもんはもちろん、キャプテン翼とかセーラームーンとかアタックナンバーワンとかはもちろんかなりニッチなものまで普及しているのだけど、「ゲゲゲの鬼太郎」って、ものすっごく日本っぽいなあって。

 

だって、主人公自身が「妖怪」で、毎回異なる種類の「妖怪」が出てきて人間の世界に悪さをして・・・っていうストーリーを、毎週日曜日の朝に子どもむけに放送している。その影響力の大きさたるや、すごくないですか?しかも、かなり前からずーっと。

もちろんそれをまるごと子どもが信じるわけではなくても、自然に「日常に"不思議なもの"が潜んでいる」と想像するようになる。「トイレの花子さん」とかだっておんなじだ。

こういう概念とかこういう文化って、フランスにはない。

 

エクソシストとか、ゾンビとか、もちろん死者がよみがえるホラーの概念はこっちにもいるけれど、それとはぜんぜん違う、世界のとらえ方なのだ。

 

あたりまえだけど、ジブリがホラー、といいたいのではなくて。

日本人は、「千と千尋の神隠し」を見たときに自然と、「ああ、ちひろは、不意に"不思議な世界"に迷い込んだのだなあ」と受け止めるし、トトロだって、「さつきとめいは、森の "不思議" に触れたんだなあ」と、こころのどこかで受け止めている。だから、おとなが見えなくても、なんにも違和感を抱かない。

 

友だちと、お互いの経験した「不思議な体験」について話しながら、改めて、日本とフランスの違い(というか、日本の独自性というか?)を感じたのでした。

日本って、宗教が特定されないところも独特。ベースにきっと「八百万の神」の信仰があることも大きいと思うけれど、「神様」とか「あの世」の概念を信じているのに、その哲学はふんわりしている。

 

おもしろい気づきでした!

 

ちなみに、わたしもけっこう不思議な体験を身近に生きてきたけれど、彼女はペール・ラ・シェーズ墓地というかなり大きな墓地の近くに住んでいるから、不思議な経験をかなりしていて、お寿司を食べたあとに夜道を歩きながら聞くの、けっこう普通に怖かったです。。。

 

パリ18区。

18区と言ったらもう、だいすきな、モンマルトルの丘。

そもそも、悩んだときは高いところでぼーっとするのがすきなわたしは、落ち込んだときにはとりあえずモンマルトルへ行こう、という傾向にある。

18区は、パリの北部に位置する。東西を17区と19区に囲まれていて、南に9区と10区が接している。9区はちいさいので、歩いて行くとすぐに2区や1区にまで着いてしまう。北側はやっぱり、環状道路ペリフェリックを境に郊外に接している。

メトロの4番線の終点ポルト・ド・クリニャンクール(Porte de Clignancourt)には大きなのみの市があるので、その治安へのイメージの割に、訪れるひとは多いのではないか、と思う。この地区への思い入れやら思い出やらは、たっくさん。

そんななかでも、自分の中でとくに大きな記憶。

 

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ひとつめは、やっぱり、ポルト・ド・ラ・シャペル(Porte de la Chapelle)。 

前に少し書いたように、じぶんの中ではずっと引っかかっている場所。(ちなみに、パリには「難民街」と言われるところはほかにもあります(19区))。

 

mori-kei05.hatenablog.com

 

トラム3b線は、ずっとペリフェリック沿いを反時計回りにまわっていくので、これまで書いた20区、19区を車窓から眺めることができる。郊外のようすは、パリ中心部の賑やか華やかなものとは違い、道路はさらに広々としているし建物の背丈はさらに低い。お店の表情も、区内とはようすが違う。あまり店が多くないのと、たまにアフリカやトルコなど移民系のお店がある。そして何より、たぶん観光客がいない分、ひとが多くない。

だけれど、ポルト・ド・ラ・シャペルの近くはようすが違う。正確に言うと、そのポルト・ド・ラ・シャペルのひとつ前のコレット・ベッソン駅(Colette Besson)とディアヌ・アビュ駅(Diane Arbus)のあいだ。道路上にたむろしている若者の数が違うのだ。というよりも、それまでいっさいいなかった若者が、一定距離ごとに車道に座っておしゃべりしたりスマートフォンを見たり、ただぼーっとしていたりする。若者たちは明らかに、ルーツがアフリカ系のひとたち。見るからに「暇そう」、そしてそれがたくさんいるのだ。

さっき書いたもうひとつの難民街として知られる19区のほうは、段ボールに「シリア難民家族」や「助けて」などのことばをフランス語で大きく書いて掲げる家族連れが多かった。それに対して、ポルト・ド・ラ・シャペルは、若者が "たむろしている" という印象だ。

ただ、気を付けなくてはいけないのは、

ポルト・ド・ラ・シャペル = 危険 / 無法地帯 ではない

っていうこと。

もうすこしきちんと理解してから帰国したい、と改めて思った。

 

ふたつめは、バルベス・ロシュショアール駅近辺(Barbès-Rochechoart)。

まず、この名前は私にとってつねに挑戦だ。発音の面で。

フランス語ではまずRはのどでうがいをするような発音になる。それがこの人単語の中で3回出てくる。ややこしい。ので、ずっと前から印象に残っている。

というのは別としても、一度行ったことがあるひとなら印象に残るのではないかと思う。何しろいつ行っても改札の近辺に常に黒人の男性が多数立っていて、何かの紙をしきりに配っているのです。その光景が「ザ・バルベス・ロシュショアール」という感じ。

ちなみにあの紙きれ、なんなのだろう・・・?見ると、すぐそばにたくさん捨てられてちらばっている。私は、分からないものは受け取らないようにしている(とくにモンマルトルエリアなどは黒人など移民系のひとが無理矢理押し売りをしようとしてくる場合がある)ので受け取ったことはないのだけれど。

こうした、駅そのもののエキゾチックさや、あまり治安がよくない事情から、昔から安宿が多くある。私も、特に学生時代はこのエリアの短期アパルトマンを借りることが多かった。

治安は別として、個人的にももともとパリのおしゃれな雰囲気よりアフリカやアジアが好きなので、このメトロ近辺の空気はまったく違和感がなかったのだ。いちばん楽しかったのは、学生時代に1か月くらいこの近くのアパルトマンを借りて、友人たちとシェア生活をした思い出だ。

モンマルトルも近いし、異国情緒あふれているし、安いし、親しみあるお気に入りのエリアだった。

・・・のだけれど、2016年、同時テロ一年後に取材で訪れた際、現地に長く暮らす日本人コーディネーターさんにどきっとすることを言われた。

どうやら、この地区の住宅には、近年テロリスト予備軍でもあるひとたちがたくさん潜伏していて、アジトもあるし、それどころか街角のカフェで作戦会議していたりするというのだ。

確かに、とくにシリアなどの難民危機が大きくなってから、以前にもましてこのエリアの人混みは大きくなっている気はする。そして、この地区から少し北の道路に入ったところには、無許可の滞在者(いわゆるサン・パピエ)が違法に路上販売をしている常設違法マルシェのようなとおりがあって、そこでは「他者(よそもの)」に対する警戒心にあふれてぴりぴりしていた。

こんな光景は、以前にはなかった、と思う。

いや、もしかしたら気づいていなかっただけかも知れないけれど、もともと細道をうろうろ歩くのが好きな性分で、近辺もだいぶ歩いていたと思うので、たぶん、前はこれほど大きくなかったと思う。

気軽に行けるエリアではなくなってしまったのが、残念だ。いや、もちろん、まだ行けるし、通りかかってすぐに危険なことがあるわけではない。ただ、時間帯や服装、そして周囲のようすにきちんと注意する必要がある。

 

みっつめ。これはもう、モンマルトル。

最初のふたつにもネガティブな情報を書いてしまったけれど、そうしたことをもってしてなお、18区は、行くべき。そして、きちんと事実を受け止めることは大事だと思うし、その上で、きちんと魅力は魅力として満喫することがだいじ、だと私は思う。

 

モンマルトルの丘は、友だちが来た場合には必ずといっていいほど連れて行く(少なくとも欠かさず提案する)。

だって、ここほど自由でのびのびしている空間って、あんまりないと思うのです。何より、芸術家たちが愛した地区だけあって、小道を歩いているだけではっとする美しい風景が広がっている。しかも、いろんな。

石畳の小道に軒を連ねるカフェ、木漏れ日の広場、細くて急な階段と黒くてすらりとした手すり、そして壁に自由に描かれた落書き、どこからともなく聞こえてくる音楽。こぢんまりとしたブドウ畑や、芸術家たちが昔集ったキャバレー、ふいに置かれたベンチ。

それに、いちばん好きなのは、いつも混んでいるんだけど、サクレ・クール寺院の前の大階段。混んでいるんだけど、やっぱりここで座って見下ろすパリは、美しい。それに、よくいる大道芸人さんが音楽を奏でていて、ぼーっと聞きながらまちを眺めているだけで、こころが落ち着くのだ。

ぎっしりと立ち並ぶアパルトマンと、その上にはいまは使われなくなった煙突が立ち並んでいて、

ああ、こんなにも世の中にはたくさんのひとがいて、ずーっと昔から、怒ったり、泣いたり、笑ったり、食べたり、踊ったり、けんかしたり、そういう風にしながら生きてきたんだなあって、しみじみと感じられる場所なのだ。

 

常に町並みが変わっていく日本では、こういう場所ってなかなかない。

モンマルトルの丘に、私は何度来たんだろうと思う。そしてこれからも、何度行くのかな。

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5月。

 

パリ19区。

ちょっといま、ショック。。。

 

さっき、忘れぬうちにきょうめぐった19区と18区も書こう、と思って、19区を書いていた途中だったのだけど、保存したつもりが消えていた。悲

・・・でも、気を取り直して、新たな気持ちで、書き直す。。

 

19区は、西側の18区と東側の20区にはさまれていて、南側には10区、北側にはやっぱり環状道路のペリフェリック(Périphérique)越しに郊外に接している。

この、18区、19区、20区というのはいわゆる「治安が悪い」と言われがちな地区で、しかもそんなに観光場所がないので、初めてのパリで訪ねることはそんなにないと思う。でも、サンマルタン運河(Canal Saint-Martin)やビュット・ショーモン公園(Parc des Buttes-Chaument)や、実はフィルハーモニー・ド・パリがあったりして、緑が豊かな地区でもある。

友だちでも住んでいるひとはけっこういて、わたしにとっては、「花の都パリ」というより「素顔のパリ」、というイメージ。なので、やっぱりぽつりぽつりと思い出がある。

 

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ひとつめは、サンマルタン運河。

これはもう、まず最初に多くの人がきっと分かるのは、映画「アメリ」の主人公アメリ・プーランが水切りをしている運河、ということじゃないかと思う。

movies.yahoo.co.jp

ただ、じつはこの映画のシーンで出てくる運河は19区ではなく、10区だ。(もう少しセーヌ川に近いほう)。

よく考えてみると当たり前なのだけれど「運河」(船舶がとおるために作られた水路)なので、これはセーヌ川に通じているのだ。

19区のサンマルタン運河は、アメリで出てくる運河よりも広々としていて、なんだか別物のようにも見える(けどもちろんつながっている)。

とくに、メトロの2番線、5番線そして7bis線が通っているジョレス駅(Jaurès)を出てすぐのエリアは、再開発されたみたいでものすごーく広々した空間になっていて、映画館やら運河沿いでのビアテラスやら、おしゃれスポットになっている。

わたしにとっては、友だちとぷらぷらさんぽしながらおしゃべりした思い出のある場所。そして、なぞの綿毛がふわふわと飛び交っていた記憶・・・(あの綿毛はどこから来たのだろう?たんぽぽの綿毛の5倍くらいの大きさで、木の幹やベンチや地面に積もって雪みたいになっていて、たぶんきっと、木の綿毛・・・?)。

やっぱりだんだん、わたしたちの年齢になってくるといろんなことを考える。仕事は、恋愛は、結婚は、これから生活する場所は?

ほんとうに偶然なのだけれど、このジョレス近くの運河沿いで、何人もの友だちと、同じようにつらつらと話をした。

 

あるひとは、恋人と別れそうであること。結婚や今後のことを見いだしかねているということ。

あるひとは、自分の仕事の将来性について、不安をずっと抱えているということ。

あるひとは、来年からアフリカへ新天地を求めて行く決意を固めているということ。

 

ひとがいる分、それぞれの悩みや希望や目標はちがう。私と同じ思いで同じことをしている人は、たぶん世界に二人はいない。いや、もちろん、似たような問題意識だとか似たような職業、というひとはきっと絶対いるけれど、生まれ持ってから誰かにコントロールされ続けていない限りは、「完璧に一緒」なんてことはあり得ないのだ。

そんなことを、思う場所。

あと、この駅の近くには屋台が出ていてビールやカクテルやちょっとしたおつまみを買えるのだけど、ビオの屋台のまわりにミツバチがぶんぶん飛んでいたことも、記憶に残っている。

パリでは、パン屋さんのショーウィンドーに並ぶパンに夢中でかじりつくミツバチに遭遇することがよくある。でも、みんな、気にしていない。私もこっちに来てから、ミツバチに対しての抵抗感(恐怖心)がすっかりなくなった。

わたしたちも大好きなハチミツをつくってくれて、果物や野菜の受粉を手伝ってくれて、いっしょうけんめい働いてくれている、ミツバチ。

ちょっと、やっぱりハエがたかっている食べものは「ううーん」と思うけれど、ミツバチがいっぱいいるお店やパン屋は「おいしいんだろうなあ」なんていうおおらかな気持ちで受け止められるようになった、この1年の変化。

 

ふたつめは、すこし20区ともつながるけれど、10区との境目に続く、大通り。

この両側にはたくさんの移民のお店が連なっている。アラブ系のパン屋さんや商店、レストランやモスク、中華系のレストラン、スーパー、、、。歩いているだけで、民族の多様さやカラフルさが目にとまる。

そんなかで私が心に残っているのは、小さな扉のモスク。アパルトマンの扉くらいの存在感のなさで、この地区にはモスクがたくさんある。

宗教施設って、その時代の人間の英知が結集している、という印象がある。

たとえば日本だって、お寺や神社は小さいものだってそれなりだし、奈良や京都、鎌倉などを訪ねると、その美しさや荘厳さにやっぱり圧倒される。

パリを始めヨーロッパには大小様々の教会があるけれど、観光名所ではない街角の小さな教会でさえも、なかの空気はしんとして、美しいステンドグラスがある。

モロッコにいったときにはモスクに、タイへいったときはきらびやかなお寺に、バングラデシュにいったときはヒンドゥー教のお寺やイスラムの建物にそれぞれ感動した。

・・・でも、パリのモスクは、違うんです。もしかしたらほかの国にも、こうして存在するのかも知れないのだけれど、ものすごくひっそりと、つつましく、むしろちょっと貧相なのです。存在感を消して、なんとか街に紛れ込もうとしているようで。

信仰の自由はだれにだってあるはずなのだけれど、社会のなかから「不可視化」されているような・・・。

活気のある大通りを歩いていてふっと出会う、ちいさなモスクの扉が、印象に残っている。

 

あともうひとつは、ビュット・ショーモン公園。パリの緑地としては最大規模のものだそうで、斜面が印象的な公園。ちなみにビュット(Butte)は丘、ショーモン(Chaumont)を意味するそうだ。

ここの、転げ落ちそうな斜面で、ピクニックをした。

もともとこの公園は、地下から石膏や石臼が採掘されていたそうで、その跡はゴミ捨て場となって荒れ果てていたところを、前に書いたオスマンさんが公園として整備することを計画したのだという。

いまは、私たちみたいに斜面に負けずにピクニックしているひともたくさんいるし、友だちによると、公園内にあるカフェは夜になるとLGBTのひとたちが集う場になっているそうだ。

歴史をたどるとまったくちがう顔を見せる場所が、人々の穏やかな憩いの場になっているってすごいな、と思った記憶。

 

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夜にかがやくエッフェル塔やセーヌ川沿いのきらびやかなパリもすてきだけれど、やっぱり、実は心に残っているのは、こういう何気ない風景だったりする。

日本のことを考えても、実は何かのときにふいに思い出すのは、通い慣れたじぶんの母校の何気ない廊下や教室の風景だったり、最寄りの駅だったり、じぶんの日常の記憶のすぐそばにある風景だったりする。

 

そういう小さい記憶を大事に生きていきたいなあ、と思うのです。

パリ20区。

けさ、いつものように12区に住む友だちの家の猫のお世話をしてから、パリの外周を回っているトラムに乗って、パリの北側をぐるりとまわってきた。

 

友だちの住んでいるポルト・ド・ヴァンセンヌ(Porte de Vincennces)は、昨日書いたとおり12区にあるのだけれど、正確に言うと12区と20区のちょうど境目上にある。

パリの右岸(パリ市庁舎やルーブル、コンコルド広場から凱旋門)を横切るメトロの1番線とともに、北に向けてはトラムの3b線が、南(セーヌ左岸)に向けてはトラムの3a線が走っている。

その3b線に乗って20区、19区、18区までまわり、ついでにそこからさらに北上して、パリ区外である、サン=ドニからボビニまで、こんどはトラムの1番線(T1)に乗って回ってきた。

 

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パリ20区は、上に書いたとおりに12区の北側に接していて、パリの東側に位置する。中心から渦巻き型で広がってぜんぶで20区あるパリの行政区の最後の一区なので、すぐそばに、パリの環状道路ペリフェリック(Périphérique)が走っていて、そのすぐ外側はもう郊外(バンリューBanlieu)だ。

ここで有名なのは、ショパンやプルースト、マリア・カラスなどの著名人が眠っているペール・ラシェーズ墓地や、丘に沿って広がるベルヴィル公園など。

でも、たぶん、よほどこうした著名人を悼みたい、などの特別な思いがなかったら、普通は観光ではなかなか行かないエリアだと思う。治安とかそういうことを抜きにして、そもそも、一般的に多くの人が「パリ」に期待するものは、ないから。

 

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ただ、私にとっては、例によっていま暮らしている11区のお隣さんでもあり、身近な区でもある。

 

まず、思い出すも何も、いまもとても身近な地区、ベルヴィル。

正確には、ベルヴィルは11区と面して北側の、19区と20区に広がる一帯だ。ベルヴィル(Belleville)とは、直訳すると「美しい街」という意味。

そんなこの地区は、実は1914年~1918年の第二次世界大戦のあとから移民を受け入れてきた。最初はポーランド、アルメニア、中央ヨーロッパのユダヤ人たち(特に1942年の夏に激増したそう)。1950年からは次にチュニジア系ユダヤ人コミュニティの波が押し寄せ、60年代にはマグレブ系(モロッコ、アルジェリア、チュニジアなど北アフリカ)の移民がやってきて、80年代になるとアジア系の移民が急増。

移民がさまざまに混じり合い共存し、パリに溶け込むための "クッション" になってきた地区でもある。

そもそもパリ同時テロのあとから、この地区への(個人的な)思いは強いのだけれど、いちばん最近の思い出は、フランスの革命記念日7月14日。

 

毎年、日が暮れた23時、エッフェル塔から花火をあげるのが恒例で、わたしは、友だちと一緒に花火を見に行く約束をしていた。

ja.parisinfo.com

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一生懸命背伸びしてとった花火。もはや花火というより、蛍の光。

でも、人混みに巻き込まれるのや、あんまりにも早く行くのがいやで、相談した結果、「公式案内」でもおすすめされていたベルヴィル公園で見ることを決めた。(ベルヴィル公園はなだらかな丘になっており、パリ自体は起伏がほとんどないこともあって、公式案内でも「少し遠目だけれど、丘からは美しい花火が見ることができる」と書かれていたから)。

22時ころから公園の芝生で夜のピクニックをしながら花火を待っていた(このとき、なぜかレジャーシートに集まってくる草原のナメクジたちとの静かな戦いがあったのだけれど、それはまた良き思い出・・・)。

まわりにもたくさんの花火見物客がいて、楽しみに待っていた23時。

音が聞こえ、始まったことが分かる。

・・・でも、見えない。

公園の木が邪魔で。。

それから、ピクニックをしていた私たちや周辺の人たちの「花火見えるスポット」を探し求める大移動が始まった。あっちへいったりこっちへいったり、本当、民族大移動のようなひとの渦。

でも、見えない。どこに行っても、公園の木が邪魔で。。。

丘のいっちばん上の、柱の脇から、ようやく、本当にようやく、すこーしだけ見ることが出来た。でもそのころにはほぼクライマックスだった。

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一生懸命背伸びしてとった花火。もはや花火というより、蛍の光。

そんなこんなでわたしの革命記念日は終わったのだけど(まあ、フランス人の友だちは置いておいて、日本人の私にとってはフランス革命はお祭りじゃないっちゃお祭りじゃないしなあ、などと思いつつ)花火も終わってまっくらになったし、そろそろ帰ろうか、と出口に向かおうとした、そのとき。

広場の端で、なんだか突然、太鼓やら笛やらのエキゾチックな音楽の演奏が始まった。街灯も日本みたいにちゃんとないので、暗闇なのだけど、なんだかアフリカンな、民族的な音楽。そして、その周りで突如、音楽を奏でるひとたちを囲むように、人々が踊り出したのだ。

音楽隊のところにあるあかりのほか、ほとんど見えない中で、輪になった人たちがひたすら激しく楽しく踊っていて。そのなかにはアフリカ系のひともいればヨーロピアンのひともいたし、女の人も男の人も、いろんなひとが混じり合っていて、みんな笑顔で踊り狂っていて。

「わあーーー」と、思った。

花火見れなかったけれど、花火よりもずーっと美しくてエネルギーのあるものを見た気がした。

踊りの才能のないわたしは、手をたたいて「すごい!」といったちんけな感想しか言えなかったけれど、いっしょにいた友だちと笑って、すごく楽しい気持ちになった。(すでにそのとき0時近く。)

どんちゃん騒ぎはその後もずーっと続いていたので、15分ほどいっしょに過ごしてから、わたしたちはそっと帰ったのだけれど。

「ベルヴィル」って言ったとき、この暗闇の中で繰り広げられていた、どこの国の文化とも言えないけどものすごく盛り上がっていた音楽とダンスの光景が浮かぶ。

「移民」とか「異なる文化」が混じるって、こういう、ことばを超えた豊かなところにあるんだよなあ、と、思ったのだ。

 

もうひとつ、20区といったら、映画「パリ20区、僕たちのクラス」。

class.eiga.com

これは、移民の多い20区の中学校で、ひとりのフランス語教師とさまざまなバックグラウンドを持つ子どもたちの1年間をみつめた映画だ。

ちょうど、10年前の留学したばかりのころにフランスで話題になっていて見た映画で、わたしにとって、フランスの移民問題を「感じる」最初のきっかけとなったひとつでもある。

最近は変わってきているとは言え、いまだ日本人がほとんどを占める日本の小学校、中学校の教室でも、いろんな問題が起きている。

そこに、さらに文化や言語、背景の違う移民の子どもたちがいるのだから、問題はさらに複雑だ。

ことばって、勝手に話せるようになるものではない。外国語を学んで改めて日本語を考えても、やっぱり、家族や友人、先生、本、テレビなど、いろんなものをとおして表現や読み書きを学んでいくのだ。

両親がフランス語を話せない家庭に育っている子どもや、問題ばかり起こしてしまう子ども。先生たちの事情。

一筋縄ではいかない現実を、そっと見つめていたこの映画は、テロなどの課題を抱え続けるフランスの縮図でもあるし、いまの世界が目を背けずに向き合わなくてはいけない現実なのだと思う。

 

わたしにとって、パリ20区は、そんな、難しいけれどとても豊かでエネルギーのある地区。

観光ではない一面が、どこの街にでもあるのだという当たり前のことを再確認する地区。

パリ8区。

さっき更新したばかりなのだけれど。

 

mori-kei05.hatenablog.com

 

ふたつめになるけど、きょう、行ってきた8区についても。

8区は、パリのやや西寄り、セーヌ川の北岸(右岸)に面している。なんといっても、7区・8区はフランスの政治・行政の中心であって、エリゼ宮はもちろん、凱旋門やらシャンゼリゼ大通りやらコンコルドやら、華々しいエリアだ。

ただ、面積的には小さいので、あっと気づいたらたぶん通り過ぎているんじゃないかと思う。隣接しているのは、西側に16区、北側に17区、東側に9区と1区。あと、セーヌ川の対岸に7区。

 

あまり住宅は多くないけれど、観光名所や大きな駅サン・ラ・ザールもあるが故に、きっとパリを訪れた多くの人が知らず知らずにでも歩いている地区だ。

 

そんな8区は、なにしろあまのじゃくで「人が行くところはきらい」な私にとってはすこし遠い地区。でもやっぱりなんだかんだの思い出も。

 

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ひとつめ。オスマン通り(Boulevard Haussmann)。

オスマンさんは、そもそも現在の「パリ」を作ったひととして知られている。ナポレオン3世の時代の、パリ改造のことだ。特に象徴的なのが、凱旋門をのぼったときに発砲へ広がる大通り。とってもきれいに広がっている。そして、そこから小道がつながる。こうした「ザ・パリ」の町並みを作ったのが、当時のセーヌ県知事オスマンだった。

凱旋門から放射状に広がる大通りのひとつが「オスマン通り」なのだけれど、この通りはわたしのこの1年の思い出に残った。なんでかというと、ここをずーっとまっすぐ歩くと我が家のあるレピュブリックまで行けるから。

修士の授業について行けなさすぎて、しょんぼりしながら、なんどもこの道をとぼとぼと家まで1時間くらいかけて歩いて帰った。なんでかというと、大学が、この凱旋門から少し南西に歩いたところだったから。

悩んでいるときや落ち込んでいるときに歩く癖がわたしにはあるようで。

クラスメイトの友だちに電話で励まされながら凱旋門横を歩いた記憶が、くっきり刻まれている。(ぜんぜん華やかじゃない・・・笑)

 

ふたつめ。モンソー公園。

17区との境目あたりにある公園。きれいです。うん。

さんぽしたり、芝生で寝転がったり、ジョギングしたり、みんな思い思いに過ごしているきれいな公園。学生のときに見たオムニバス映画「パリ・ジュテーム」のなかのひとつの物語のロケ地にもなった(アルフォンソ・キュアロンが監督)。これは、モンソー公園が直接出てくるわけじゃないのだけど、フランスの子育て事情やおとなの事情が垣間見えてかわいいエピソードだ。

あと、日本には「モンソー・フルール」がやってきていて、ちょっとおしゃれなお花屋さん、のイメージだけれど、こっちでは、リーズナブルな花屋さん、のイメージ。

www.concent.co.jp

私にとってモンソー公園やモンソーフルールは、なんだか外から見たフランスと、じっさいに暮らして見えるフランスの、「ずれ」がやさしく見える地区。

そんなに行ったことはないけれど、10年前にはインターン先で出会った同世代のフランス人青年と、今年はフランス人マダムと、公園内でつらつらとおしゃべりを楽しんだ思い出。

 

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あと、凱旋門やシャンゼリゼ通りについては、とくに10年前、日本人の女の子の友だちが訪ねるたびにぜったいにフランス人のおじさんにナンパされていたのが、印象的な思い出だ。

フランス人のおじさんたち(男性たち?)のなかで「親日家」が一定数いて、そうしたひとは若い日本人の女の子に話しかけ、パリの小ネタを披露し、カフェをごちそうし・・・という流れがある。

フランス人の、とくにおじさんの「ナンパ癖」に警戒心たっぷりだった当時のわたしは、友だちが軒並みナンパされているのにやきもきしていた記憶がある。

なんでかというと、これはサンミシェルという地区のレストランで食事をした際だったけれど、店主のおじさんとの雑談で「日本人の女の子って、簡単だよねえ。すぐ口説けるし(なんならすぐ身体の関係も持てる)。」と言われたのがくやしかったから。

でも、当時の自分も、ずいぶんかりかりしていたな、と今になっては思ったりもする。大学生だったときの自分の、青臭さやきまじめさが懐かしくなったりもする。

 

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なんだかすてきな思い出はそんなにない、8区・・・。

 

皆さんは、フランス、凱旋門に行ったことがありますか。

どんな思い出が、ありますか。

パリ12区。

パリは小さい。

 

端から端まではメトロで30分から1時間で横断出来てしまうし、メトロを使わなくても1時間ほど歩けば別の地区へ行ける。

でも、地区によって「これでもか」というほど町並みが変わるし、文化もいる人も変わる。

観光で有名なのはやっぱり中心部(あとサクレ・クールとか少し点在する名所)だ。けれど、住んでみて初めて、こうした小さい中に豊かに文化が凝縮された空間であることが、パリの人を惹きつけてやまないゆえんなのかも知れない、と思う。

(ただ、面白いのは、パリの住民たち自身はあまり自分の区から外に出ない、ということ。生粋のパリジェンヌ、パリジャンのおじいちゃんやおばあちゃんたちは、自分の区を「村」のように誇りに思っていて、ちっとも外に出て行かないのだ。)

 

20区をそれぞれめぐる、という目標を以前に立てたのだけど、どんな風にまとめようかな・・・と思案した結果、個人的な思い出に基づいた記録をすることにした。ちょっと偏っているけれど、偏らない記録なんて存在しないから。わたし、という人間が、わたしの日常をとおして得た、地区の記憶。

 

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11区に住む私にとって、パリ12区は、お隣さんだ。渦巻き状に数が数えられているパリの20区の中で、12区は、南東部に位置して、セーヌ川の北側(右岸)にある。

自然が多く、とにかく広い。そして、落ち着いているし地価の上がるパリにおいても比較的リーズナブルなこともあって、フランス人が家庭を持つのに好むそうだ。

地方へつながる駅でもあるリヨン駅やバスティーユ広場、ヴァンセンヌの森など、いろんな顔を持っている12区。

でも、私自身も基本的に自分の住む11区に出没していたので、あまり12区についてはなじみがない。

そんな中で、思い出すことを、みっつ!

 

 

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ひとつめ。シネマテーク・フランセーズ。

 

ジャック・タチ、というひとを、知っていますか?

eiga.com

これ(↑)は、2014年に日本で行われたという映画祭のお知らせなのだけれど。

フランス人の映画監督(かつ俳優)で、「ぼくの伯父さん」シリーズや「プレイタイム」など、コミカルでくすっと笑えるけれどフランスの空気をとてもやさしく描いている作品で知られる。

タチは、監督と同時に主演を勤めているのだけれど、のっぽで帽子とパイプがトレードマークの「ムッシュー・ユロ」(これが "伯父さん")を演じている。もうね、音楽がすてき。あと、ユロおじさんの動き。ほとんど台詞はなくて、ないのに、分かる。そして、ちょっとだけ切ないノスタルジーの余韻が残る。

フランス語を勉強し始めたころにこの映画に出会って、もうとにかく、この映画の世界観にすっかり魅了されてしまったわたしが、どうしてもタチのことを知りたくて(日本ではまだあまり知られていなかった)、一回目の留学の時に行ったのが、タチ生誕102周年のイベントをやっていた、シネマテーク・フランセーズだった。

それまで、交換留学時代もほとんど一人じゃ冒険していなかった自分が、初めてシネマテークに行って、このユロおじさんを見たとき、とにかくテンションがものすごく上がったことを、強く強く覚えている。

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当時のシネマテーク・フランセーズ。ユロおじさんと、連れの子犬のシルエット。

シネマテーク・フランセーズだけじゃなくて、フランスにはシネマ(映画)に関する建物や映画館がまだまだ本当にたくさんあるのだけど、この、初めて行ったシネマテーク・フランセーズの光景は、フランス人たちにとっていかに映画が大切なのか、ということを空間全体で感じた、原経験だった。

このシネマテークがあるのが、パリ12区。

 

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ふたつめ。フランスの「お金の流れ」を司る、ベルシー。

ベルシー(Bercy)というのはそもそも、地区の名前で、だからこの地区にはベルシー・ヴィラージュとかベルシー・アリーナとかいろんな観光施設もあるのだけれど、フランス人にとっては、通称「ベルシー」といったら「経済・財務省(Ministère de l'Economie et des finances)」をさす。なぜかというと、このベルシー地区にこの省があるから。

つまり、フランスのお金の流れの根本を司っている省庁であって、私の所属していた公共政策学の修士コースのフランス人生徒たち(官僚や官僚を目指す人たち)にとっては "輝かしいスーパー・エリートたち" の働く場でもあった。

授業中に「ベルシー」「ベルシー」としきりに名前が出てくるので「ふーん」という程度だったのだけれど、5月にこの "華のベルシー" で出張授業が行われたので、実際に行くことになった。フランス人の生徒たちはみんなものすごく、ほんとうにものすごく、喜んでいた。

・・・のだけれど。

じっさいに訪れたベルシー(経済・財務省)の建物が、ものすっっっっごく古くて。しかも、バカンス中だったからか、ほんっとに人がいなくて。

建物は右も左も似たような作りで窓もなく「ましかく!」という感じののっぺりとした作り(だから建物の中なのにめっちゃ道に迷う)だし、フランス人にとっては水の次に大切なカフェマシーンもほとんどないし、そもそも人がほとんどいなさすぎて「セキュリティ大丈夫?」という感じで。

休憩時間にカフェマシーンとトイレを探し求めてさまよいながら、「これは典型的な前時代のフランスの象徴よ」と言うフランス人のクラスメイトたちと、笑うしかなかった思い出。

フランスのエリゼ宮とか、いかにも「フランス」のイメージとして浮かぶ華やかな舞台の一方で、現実ってそんなに甘くないのだよな、、、と、そんな当たり前のことをしみじみと思った。

そんなわけであまり心躍らない出張授業だったけれど、ランチの休憩時間に(きちんと1時間半あった)ベルシー・ヴィラージュ(Bercy Village)という、もともとのワイン倉庫をショッピングモールにリニューアルしたおしゃれスポットまでみんなで散歩して、オバマ大統領が大好きだというハンバーガーショップ「Five Guys」でがっつりとしたハンバーガーを買って、5月の青空の下でピクニックしたのは、なんだかすごく楽しい思い出だった。

www.bercyvillage.com

ベルシー・ヴィラージュは広々としているし、パリのバリアフリーまるで無視な街作りの中では比較的回りやすい場所だと思うので、観光にいいなあ、と思った、そんな思い出。

このベルシーも、パリ12区。

 

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最後に、セーヌ河岸からの長い長いさんぽ。

この1年、ずーっと毎週のように、多いときは週に2回も、フランス人の友人にフランスの社会制度やフランス語を教えてもらっていた。そうでないと、とてもとても、授業について行けなかったから。(たとえば上に書いた「"ベルシー"といったら"経済・財務省"」といったことも、フランス人にとっては常識でも私は知らないから、授業の話題についていけないのだ。「何が分からないのか」が分かっていなかった私にとって、定期的にフォローしてくれるネイティブフランス人の手助けが欠かせなかった)。

だけど、彼女が春に、パートナーの仕事の都合でパリを離れてしまってから数か月会えていなくて。もうその頃にはほとんど授業も課題も終わっていたので、物理的に困ることはなかったのだけれど、半泣きになりながら課題に向き合っていた私をずっと穏やかに励まし続けてくれた彼女は、私にとってとても大事な友だちで。

そんな彼女と再会できた、8月。(ほんの数週間前!)

待ち合わせはセーヌ川沿いの、「パリ・プラージュ(Paris Plage)」。

基本的にフランス人は夏(7月半ば~8月末)は「バカンス!」モードで、ほとんどの人たちが数週間のやすみをとってどこかしらの海辺に出かけるのだけど、バカンスへ出かけずに海なし街のパリに残るひとたちのために、毎年セーヌ川沿いにフェイクの「海辺」を再現している取り組みが、「パリ・プラージュ」(今年は7月6日から今日まで)。

en.parisinfo.com

河岸に出店しているバーで久しぶりに待ち合わせた彼女は、身内の事情や自身の健康などで、とても疲れて見えた。私よりももともと年上だったけれど、疲れたようすにびっくりして、少しずつおしゃべりをしながら話を聞いた。話が止まらないまま、夕ご飯を食べよう、ということになって、彼女の滞在している12区のアパルトマンの方へ向かって散歩をすることになって。

セーヌ川沿いは、もともと歩道より車道がほとんどだったのだけれど、数年前から車を減らすという取り組みもあって、散歩道が拡大されたそう。待ち合わせたのはサンルイ島も近い4区の河岸沿いのバーだったけれど、そこから河岸を歩いて歩いてバスティーユ広場へ着き、そこからさらにドメニル通り(Avenue Daumesnil)を歩いて歩いて、ドメニル駅の広場まで着いて、その近くのピザ屋さんでピザを食べた。

1時間半以上、歩きながら、12区の地区の話を聞きながら、いろんなことを話しながら。

ドメニル通り沿いには、もともと最初の鉄道が走った跡である高架が残っていて、その高架のうえを歩くことも出来る。そして、高架下にはたくさんのアーティストたちのアトリエやギャラリーが軒を連ねている。

パリの夏とは言え、20時を過ぎてどんどん暗くなっていく中で、ずーっと高架沿いにおしゃべりをしていたあの時間が、なんだか夢みたいで、でも心のなかにずっしり残っていて、さんぽっていいなあ、おしゃべりっていいなあ、って改めて思ったのでした。

ゆっくり歩きながらつらつらと話していると、日頃はぜったいに話さないようなことも話せたりする。そのとき見ていた景色は、歩きながら過ぎ去っていくようで、でも、話した内容とともに心には残っている。

写真を撮っていないことを少しだけ悔いたりもしたのだけれど、写真で残すより、自分の記憶にのこったアメリと歩いたあの夕暮れ時のパリの通りの光景を、大事にしたいな、と思ったのでした。

このバスティーユからピザ屋さんまでの道のりもずーっと、パリ12区。

 

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それ以外にも、ぽつりぽつりと、思い出はたくさん。

 

私が、いまから12年前、ほんとうに初めてフランスに来たとき、フランスの田舎町へボランティアステイに行くために特急(TGV)に乗り換えたのも、12区のリヨン駅だった。

あのとき、たったひとりで、つたないフランス語でどきどきしながら入ったリヨン駅前のカフェの風景をいまでも覚えている。

 

きょうまで1週間くらい、バカンスでギリシャへ旅立った友だちの飼い猫のえさやりのために通ったアパルトマンも、12区のポルト・ド・ヴァンセンヌ(Porte de Vincennces)。

 

その友だちの家でお茶をごちそうになったあと、友だちの新しいボーイフレンドと3人で食事をしたレストランがあったのも、12区のポルト・ドレー。

 

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こうして、小さな思い出が積み重なって、ひとりひとりにとっての「地区」の色ができあがっていくんだな、と思う。

一般的な歴史的建造物や観光スポット、名所ももちろんすてきだけれど、わたしは、「その人にしかない思い出」が好きだ。

私にとってのパリ12区は、ほろ苦い思い出やあたたかい思い出が入り交じっている。

 

みなさんは、どんな街に、どんな記憶がありますか?

 

こうやって、地区の記録も残していきたいなと思います。(でもきょう入れてあと14日しかないから、20区制覇するためには少し盛りだくさんに書いていかないと・・・!)