森の日記

見たこと、知ったこと、感じたこと。

7か月ぶりのつぶやき。

すっかり離れていた。このページを開けることから。

この間、いろいろなことがあって、そのこと自体も、それに対して自分が感じたことも、言語化できなかった。

社会で起きているいろいろな事象や出来事や付随する余波になんだか気持ちが乱れて、自分自身の内面・外面で起きている変化にも気持ちが乱れて、でも、なんてことない顔をして日々を送ることだけを続けようとして、いろんな感覚に蓋をしていたところもある。

 

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今日はとても良く晴れた日で、すっきりとした冬晴れの空に雲がほとんど見えない。いまは午後4時近く。だんだん夕方に近づいていて、青空の一方で太陽がちょっとずつ黄色みを増している。

 

緊急事態宣言下だけど、特に大きな変化は町には見当たらず、人々は当たり前のように皆マスクをしていて、相変わらず電車の中で聞こえる会話は少なく、多くの人が手に持った携帯をのぞき込んでいる。いまは窓に面した建物の7階にいるわたしもそのひとりだった、ついさっきまで。

 

なんだか本が読めなくなっていた、ここ数か月。読んでも頭に入ってこなくて、もやがかかったような理解と感性で受け止めている感じ。

映像にも興味を失い、テレビ番組もサブスクのチャンネルもYoutubeからも離れ、自堕落にSNSを眺めては、生産性のないパズルゲームで時間をつぶしていた。

 

でもたぶん、外から見た“わたし”は、これまで通りに見えていたんじゃないかなと思う。そう繕っていたから。過去の「内面の貯金」から削り出して、何も変わらず生きている風を装って。

 

さっき、やっぱり無気力で、ちょっと気になって開いたインターネット上の新聞記事の中で、ふっとささることばがあった。

田中克彦さんという言語学者の文章。

 

『差別は、言葉なくしては生まれません。言葉には、混沌(こんとん)とした、つかみどころのないものに「刻み目」を入れて分類する働きがあります。たとえば、虹の色はそれぞれの境目には区切りはないのに「7色」ということにされている。こうした単純な分類は熟慮する必要がなく、人々が受け入れやすい面があります。』

 

ああ、これだ、と読んで思った。ここ半年近くの自分のもやもやしてはき出せなかったさまざまな感情。

自分の中が混沌としていて、でも普段であれば、それでも無意識に自然とその混沌からなんとなく自分の言葉を切り出せていたのが、不意に出来なくなってしまっていたんだ。

世の中には「言葉」があふれていて、“それっぽい”言葉もあれば、人を傷つけるような短絡的な感情で吐き出された言葉もあって、その混沌とした言葉の海の中で、自分の感覚を見失っていた。分からなくなって、正解なんてないのに正解がわからなくなって、たんたんと日常をこなしていた。

 

そう気づけて、なんだかふいに、癒やされた気がして、すごく久しぶりに開いたこのブログに、言葉を刻みたくなった。そんな夕方。