森の日記

見たこと、知ったこと、感じたこと。

留学前2

留学に一緒に行けることが、とても嬉しかった。つかず離れずでけんかしたりもあったけど、Rと出会えたおかげで大学生活も楽しかった。

 

留学行く前にひとつ、印象に残っていることがある。

当時、私は入学してから仲良くなった友人が精神を弱めてしまって大学に来られなくなり、精神科にかかっていることに心を痛めてた。

友人は、わたしとだけ連絡を保ってくれていたのだけれど(似ているところを感じる、と言ってくれていた)、当時のわたしは、なんでもすぐに自分を卑下する方に物事を解釈する傾向があって、彼女が来られなくなったことについても、その彼女のつらさを理解出来ない自分、支え切れていなかった不能さについて自分を責めてしまっていた。

人のマイナスな感情をそのまま受け止めてしまう性格だったのだと思う。

 

だんだん元気がなくなり、かつ電車の中での痴漢被害や、なんてことのないほかのクラスメイトの愚痴にまでもダメージを受けるようになり、なんだか参ってしまった。

ごはんも食べられなくなり、電車に乗るのも嫌になり、毎日何時間も夜の町を歩くようになった(とはいえ夜の町と言っても新宿とかの危険なところではなく、家にまっすぐ帰れなくて、神保町とか東京駅近辺とか、 "普通の" 夜のまちだ)。

 

そんな中ある夜、Rとふたりで晩ご飯を食べた。大学近くのレストラン。たしか、シンガポールチキンライスのお店。

 

そこで、自分が苦しいと感じていることを、人の感情をもろに受けてダメージを負ってしまう性分であることを、正直に話したとき。

Rは、解決策を一緒に考えてくれながら、自分の考え方を教えてくれた。

 

「私、小さい頃から、親にも周りの人にも褒められて育ったの。外見もそうだし、幼い頃からの習い事でも、たとえばバレエをやっても他の人より上手だったし、学校の成績も優秀だったし。いつも、『かわいいね』『すごいね』って言われて育った。だから、自己肯定感が強いみたい。」

 

その年頃の女の子って、だいたい"謙遜"がデフォルトだ。まあその年頃でなくても、どれほど美しくても、優秀でも、人はたいてい、周囲のひとに褒められたら、「いやいやそんなことなくて・・・」と言うことが多いと思う。

 

それが当たり前の社会で、

「自分がかわいい」「自分は優れている」と言われてきたこと。

それを自覚・自認していること。

 

他者に悪びれることもなくまっすぐ言う人に出会ったのは、わたしにとってRが初めてだった。

衝撃だった。

 

でも。

その屈託なさが、わたしは好きだと思った。いいな、と思った。

自分には絶対に言えないことだったから。

 

「だからなのか、私、たとえば誰かが悩んでいたとしても、そこに完全に自己投影できないの。どこかで『自分は別』って常に一線を引いている。M(わたしのこと)は、優しいんだね。だから、自分は別だと思わずに、相手のことを100%理解しようとして、出来ないと自己否定しちゃうんだね。」

 

このときまでわたしは、「自分は別」と割り切ることが出来るひとがこの世にいるのだ、ということも、知らなかったのだ。

 

考えたら当たり前っちゃ当たり前だ。

友だちが失恋して、泣きながら「ねえ、聞いてよ!」と経験した悲しみを語るとき。

相手に、「へえ~。それは悲しかったね。でも、私にはそんなこと起きない」なんて言うことは女同士の友情ではあまりないと思う。

「ひどいねー!許せない!」とか怒って、「〇〇にはもっと良い人がいるよ!」って、一緒に悲しんだり怒ったりする。

 

でも、ものすごく突き詰めてドライに考えたら、どんなに周囲が共感してくれても、しょせんふられたのは当事者以外誰でもなく、その当事者が乗り越えなきゃダメなわけだ。入試に落ちた悲しみ、大切な人を失った悲しみ。

本人が乗り越えるしか、前に進む手立てはない。

 

当たり前なのかもしれないけど、20やそこらだったわたしにとって、この事実は目からうろこだった。

そして、「自分は別」と公言できる彼女に対して、反感というよりかは敬服の念を抱いた。そういう、いわゆる "聞こえの悪いこと" を言ってくれる彼女への信頼感は増した。

 

「元気でないときは何よりも白米を食べないとダメ!」

と励ましてくれた彼女。

必ずしも相手の感情をすべて受け止めなくても良いのだと知ったわたしは、落ち込むことがあると意識的に「食べよう!」と思えるようになった。

大学に来られなくなった友人がその後、戻ってくることはなかったけれど、私自身は少しずつ元気になっていった。

 

この夜のごはんは、わたしにとって、彼女がさらに大きな存在になったきっかけだったんだと思う。Rが覚えているかは分からないけど。

 

■◇■

派遣留学に行けることになった私たちは、語学の勉強も兼ねて、自分たちの大学に留学に来た生徒たちのチューターに応募することにした。フランス語圏から日本に留学に来る学生の生活面や課題面でのサポートをし、その代わりに自分たちは彼らの母国の文化を教えてもらえる、という相互援助の関係だ。

その年、私たちの大学に留学に来たのは3人。

教授から、チューターの募集の呼びかけがあって、何人が応募したのかはもはや分からないのだけど、

 

結果として、

パリから来た20代の男の子A(日本語習得が目的・彼女が日本人)を、

クラスメイトの男子学生のひとりが担当することになった。

 

パリから来た30代ですでに日本語の流ちょうな男性I(修士・日本芸術が好き)を、

Rが担当することに。

 

そして、

ジュネーブから来た30代の男性U(修士・日本文学/映画が大好き)を、

わたしがチュータとしてサポートすることになった。

 

わたしのチューター相手でジュネーブから来たUは、日本の映画が大好き。

古めの日本映画とか日本文学から日本語を学んでいるから不思議な言い回しや古風な単語をよく知っていて、ブラックユーモアが好きな面白い人だった。年はだいぶ上だけど、すぐに仲良くなった。

 

授業の合間に彼の課題の日本語作文を添削したり、反対に自分の派遣留学書類の準備を手伝ってもらったり。

 

同時期に来たほかのふたりの留学生やR,男子学生らもともに、学食でおしゃべりをしたり、のみに出かけたり。

わたしの人生で初めて、フランス語圏で出来た"友だち”と言えるコミュニティ。

新鮮で楽しかった。

 

そんな中で・・・

なんでだか、次第にRのチューター相手のIと、ふたりで遊ぶことが多くなっていった。きっかけをちゃんと覚えてないけれど、Iのほうからメールが来るようになって、ふたりでやりとりすることが自然と増えていった。

Iには当時、パリに残してきたとてつもなくかわいいパリジェンヌのガールフレンドがいて、彼女も我々のコミュニティではよく知られた存在(かつあこがれの人気者!)だったので、特に警戒心を持たなかったことも大きかった。

 

地元・横浜を案内しながら1日中ふたりで散歩したり、美術館に行ったり。

いま思えば明らかに「デート」だと思うけど、無邪気にどんどん、ふたりっきりで過ごすことが増えていた。

 

あれ、チューター制度は?

 

って思うけど、当時はそんなの、まったく考えていなかった。

男性が苦手だったわたしは、ちょうどガールフレンドがいるということで変に意識することもなく、でも年上で物知りな彼との会話は楽しくて、自然と毎週末のように出かけるようになっていった。

 

そのとき、もともとチューターだったRはどんなことを考えていたのだろう。まったく気にしていなかったのかもしれないし、自分が担当のチューター相手がわたしと仲良くなって複雑だったのかもしれない。

 

それも結局聞いたことがない。

 

派遣留学が近づいてきたころ、このフランス人留学生Iは、もう1年、日本滞在を延長することになった。そして、パリにいて彼の帰りを待っていたガールフレンドはしびれを切らし、彼を追いかけて日本に来ることになった。

その矢先。Iは、パリでガールフレンドとともに暮らしていたアパルトマンを、わたしに1年貸すことを提案してくれた。

留学先の住居なんてまったく考えていなかったわたしは、特に何も考えずにその話に飛びついた。

正直なところ、寮やホームステイへの憧れがずっとあったのだけれど、Iの住まいを借りられるなんてとても光栄なことだし、こころのどこかで、Rではなくわたしに提案してくれたことへのうれしさもどこかにあった。

小さな優越感だったのかもしれない。

 

かくして、わたしは、IとIのガールフレンドの愛の巣でもあるパリのストゥディオに、留学初日から入居できることになった。

 

それは、とっても幸運なことだったと後から感じることになった。

そして、そのアパルトマンは、1年間の私たちのフランス留学において、とっても大事な場所になった。