留学
その年の秋からの留学中の住まいも見つかり、あとは単純に派遣手続きとビザの手配をしながら、勉強をする日々が続き、そして、秋に。
初めて ”暮らす” ことになった、外国、フランス。
旅することと暮らすことの最も大きな違いは、目に映る風景の色づき方だ。
旅で滞在するとき、目に映るものはすべてどこか新鮮だ。建物、街角の看板、道行く人、空の色、天気の移り変わり。お店の看板や駅の案内標識ひとつとっても、すべてがその地の風習に根付いた上に築かれたものなわけで、それは異なる風習の中で育ったものにとって、”当たり前ではない”。引っ越したときも同じ。最初に感じる新鮮さは、とてもビビッドな色合いとして目に映る。私にとって、新たな場所に行くことの面白さの半分は結構そこにある。(残り半分は、その地で出会う”ひと”だ。)
それが、
毎日過ごすようになっていくと、だんだん”当たり前”になっていく。
スーパーの商品の並び、きっぷの買い方、いつも立ち寄る店。
慣れていくと、だんだん風景はまろやかになっていく。
でも、それが悪いわけでもなくて、まろやかな色合いで見えるようになると、今度はさらにもうひと段階深い”差異”に気づけるようになっていくから面白い。
たとえば、このスーパーに来るのはおしゃれなマダムとかちょっとステイタスの高いひとだな、とか。たとえば、この道路にはいつも朝の通勤ラッシュにヒッピーの若者がいて、音楽を奏でているな、とか。
毎日、小さな発見や気づきがあり、気づくと日常が美しく楽しく見えてくる。
その”気づき”の面白さを最初に私に教えてくれたのは、アパルトマンを貸してくれたフランス人の留学生Iだった。いっしょに散歩をしながら、小さな変化に気づく楽しさを教えてくれた。
街角の生け垣の花が咲いた。看板の文章がちょっと変。あそこに歩いている人の服装が素敵…。散歩の好きなフランス人らしさでもあるけど、彼と留学前にたくさん時間を過ごしたことは、私にとって今も、その後の人生を豊かにするヒントになっている。
◇▼◇
パリで、見るものすべてがビビッドで面白かった最初の日々を、私はRといっしょにすごした。彼女はパリでの住まいを見つけられていなかったから、家が見つかるまでのあいだ、私のアパルトマンに一緒に生活していたのだ。
学校に行き、フランス語がほとんどわからぬまま呆然と一日を過ごし、出された課題を抱えへろへろで帰宅。慣れない近所のスーパーで手探りで材料を買い、夕ご飯を作る。
牛乳で作るホワイトソースのシチューやクリームパスタ、ラルドン(パンチェッタみたいな塩漬け豚)を使った炒め物、簡単なスープ。そして、5ユーロくらいで買った赤・白・ロゼワイン。当時まだ日本ではロゼワインはそこまで一般的ではいなかったし、ワインを学生同士のごはんで飲むような文化もなかった私たちにとって、「夕食のおともにワイン」というただそれだけで、なんだか自分がおしゃれになったような気がしたのだ。浮かれて、よく飲んだ。ふたりで酔っ払ってワインを買い足しに出かけたり、酔っ払った自分たちを見て笑いあったりした。時には好きな音楽をYoutubeで流しては、自分たちの恋愛観について語り合ったりもした。
エリート学校は本当に想像以上にエリートだらけで、自分のフランス語のレベルは想像以上に絶望的に低くて。毎日毎日、劣等感と乗り越えられない壁の連続ではあったけど、そんな中でRとの暮らしはささやかな ”希望" だった。
そして約一か月後、Rは住まいを見つけ、同じ交換留学生の友だちFとシェアして住むこととなって出ていった。
大学での友だちも少しずつできていったけど、そのあとも、私たちはお互いの家でフェット(パーティー)した。終電のメトロを逃して、始発のメトロで帰ったなんて、しょっちゅう。
言語の壁があり、エリート意識の高いフランス人たちとなかなか仲良くなれない中、同じ大学から来た、同じ課題に直面しているRたちとの時間は、貴重な息抜きだった。
ある日、RとFが、Fの大学の日本語を学ぶフランス人たちとチューターを組むと聞く。
「わあ、いいな!」
と言った私に、相手のチューターのひとたちも仲良し3人組だから、ペアを組む相手のいなかった3人目のひとと私がチューターを組んだら、とふたりからの提案。
けっきょく3対3でペアを組むことになった。
チューターの彼らと私たち。
フェットやピクニックや楽しいことをたくさん一緒にした。チューター相手になったPとは週に1回会って、課題を手伝ってもらったり会話の練習をしたり。
Rと彼らにとても支えてもらったのだった。学術的にも、精神的にも。