森の日記

見たこと、知ったこと、感じたこと。

パリ20区。

けさ、いつものように12区に住む友だちの家の猫のお世話をしてから、パリの外周を回っているトラムに乗って、パリの北側をぐるりとまわってきた。

 

友だちの住んでいるポルト・ド・ヴァンセンヌ(Porte de Vincennces)は、昨日書いたとおり12区にあるのだけれど、正確に言うと12区と20区のちょうど境目上にある。

パリの右岸(パリ市庁舎やルーブル、コンコルド広場から凱旋門)を横切るメトロの1番線とともに、北に向けてはトラムの3b線が、南(セーヌ左岸)に向けてはトラムの3a線が走っている。

その3b線に乗って20区、19区、18区までまわり、ついでにそこからさらに北上して、パリ区外である、サン=ドニからボビニまで、こんどはトラムの1番線(T1)に乗って回ってきた。

 

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パリ20区は、上に書いたとおりに12区の北側に接していて、パリの東側に位置する。中心から渦巻き型で広がってぜんぶで20区あるパリの行政区の最後の一区なので、すぐそばに、パリの環状道路ペリフェリック(Périphérique)が走っていて、そのすぐ外側はもう郊外(バンリューBanlieu)だ。

ここで有名なのは、ショパンやプルースト、マリア・カラスなどの著名人が眠っているペール・ラシェーズ墓地や、丘に沿って広がるベルヴィル公園など。

でも、たぶん、よほどこうした著名人を悼みたい、などの特別な思いがなかったら、普通は観光ではなかなか行かないエリアだと思う。治安とかそういうことを抜きにして、そもそも、一般的に多くの人が「パリ」に期待するものは、ないから。

 

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ただ、私にとっては、例によっていま暮らしている11区のお隣さんでもあり、身近な区でもある。

 

まず、思い出すも何も、いまもとても身近な地区、ベルヴィル。

正確には、ベルヴィルは11区と面して北側の、19区と20区に広がる一帯だ。ベルヴィル(Belleville)とは、直訳すると「美しい街」という意味。

そんなこの地区は、実は1914年~1918年の第二次世界大戦のあとから移民を受け入れてきた。最初はポーランド、アルメニア、中央ヨーロッパのユダヤ人たち(特に1942年の夏に激増したそう)。1950年からは次にチュニジア系ユダヤ人コミュニティの波が押し寄せ、60年代にはマグレブ系(モロッコ、アルジェリア、チュニジアなど北アフリカ)の移民がやってきて、80年代になるとアジア系の移民が急増。

移民がさまざまに混じり合い共存し、パリに溶け込むための "クッション" になってきた地区でもある。

そもそもパリ同時テロのあとから、この地区への(個人的な)思いは強いのだけれど、いちばん最近の思い出は、フランスの革命記念日7月14日。

 

毎年、日が暮れた23時、エッフェル塔から花火をあげるのが恒例で、わたしは、友だちと一緒に花火を見に行く約束をしていた。

ja.parisinfo.com

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一生懸命背伸びしてとった花火。もはや花火というより、蛍の光。

でも、人混みに巻き込まれるのや、あんまりにも早く行くのがいやで、相談した結果、「公式案内」でもおすすめされていたベルヴィル公園で見ることを決めた。(ベルヴィル公園はなだらかな丘になっており、パリ自体は起伏がほとんどないこともあって、公式案内でも「少し遠目だけれど、丘からは美しい花火が見ることができる」と書かれていたから)。

22時ころから公園の芝生で夜のピクニックをしながら花火を待っていた(このとき、なぜかレジャーシートに集まってくる草原のナメクジたちとの静かな戦いがあったのだけれど、それはまた良き思い出・・・)。

まわりにもたくさんの花火見物客がいて、楽しみに待っていた23時。

音が聞こえ、始まったことが分かる。

・・・でも、見えない。

公園の木が邪魔で。。

それから、ピクニックをしていた私たちや周辺の人たちの「花火見えるスポット」を探し求める大移動が始まった。あっちへいったりこっちへいったり、本当、民族大移動のようなひとの渦。

でも、見えない。どこに行っても、公園の木が邪魔で。。。

丘のいっちばん上の、柱の脇から、ようやく、本当にようやく、すこーしだけ見ることが出来た。でもそのころにはほぼクライマックスだった。

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一生懸命背伸びしてとった花火。もはや花火というより、蛍の光。

そんなこんなでわたしの革命記念日は終わったのだけど(まあ、フランス人の友だちは置いておいて、日本人の私にとってはフランス革命はお祭りじゃないっちゃお祭りじゃないしなあ、などと思いつつ)花火も終わってまっくらになったし、そろそろ帰ろうか、と出口に向かおうとした、そのとき。

広場の端で、なんだか突然、太鼓やら笛やらのエキゾチックな音楽の演奏が始まった。街灯も日本みたいにちゃんとないので、暗闇なのだけど、なんだかアフリカンな、民族的な音楽。そして、その周りで突如、音楽を奏でるひとたちを囲むように、人々が踊り出したのだ。

音楽隊のところにあるあかりのほか、ほとんど見えない中で、輪になった人たちがひたすら激しく楽しく踊っていて。そのなかにはアフリカ系のひともいればヨーロピアンのひともいたし、女の人も男の人も、いろんなひとが混じり合っていて、みんな笑顔で踊り狂っていて。

「わあーーー」と、思った。

花火見れなかったけれど、花火よりもずーっと美しくてエネルギーのあるものを見た気がした。

踊りの才能のないわたしは、手をたたいて「すごい!」といったちんけな感想しか言えなかったけれど、いっしょにいた友だちと笑って、すごく楽しい気持ちになった。(すでにそのとき0時近く。)

どんちゃん騒ぎはその後もずーっと続いていたので、15分ほどいっしょに過ごしてから、わたしたちはそっと帰ったのだけれど。

「ベルヴィル」って言ったとき、この暗闇の中で繰り広げられていた、どこの国の文化とも言えないけどものすごく盛り上がっていた音楽とダンスの光景が浮かぶ。

「移民」とか「異なる文化」が混じるって、こういう、ことばを超えた豊かなところにあるんだよなあ、と、思ったのだ。

 

もうひとつ、20区といったら、映画「パリ20区、僕たちのクラス」。

class.eiga.com

これは、移民の多い20区の中学校で、ひとりのフランス語教師とさまざまなバックグラウンドを持つ子どもたちの1年間をみつめた映画だ。

ちょうど、10年前の留学したばかりのころにフランスで話題になっていて見た映画で、わたしにとって、フランスの移民問題を「感じる」最初のきっかけとなったひとつでもある。

最近は変わってきているとは言え、いまだ日本人がほとんどを占める日本の小学校、中学校の教室でも、いろんな問題が起きている。

そこに、さらに文化や言語、背景の違う移民の子どもたちがいるのだから、問題はさらに複雑だ。

ことばって、勝手に話せるようになるものではない。外国語を学んで改めて日本語を考えても、やっぱり、家族や友人、先生、本、テレビなど、いろんなものをとおして表現や読み書きを学んでいくのだ。

両親がフランス語を話せない家庭に育っている子どもや、問題ばかり起こしてしまう子ども。先生たちの事情。

一筋縄ではいかない現実を、そっと見つめていたこの映画は、テロなどの課題を抱え続けるフランスの縮図でもあるし、いまの世界が目を背けずに向き合わなくてはいけない現実なのだと思う。

 

わたしにとって、パリ20区は、そんな、難しいけれどとても豊かでエネルギーのある地区。

観光ではない一面が、どこの街にでもあるのだという当たり前のことを再確認する地区。