森の日記

見たこと、知ったこと、感じたこと。

卒業後

卒業後、わたしは、研修の結果、東日本大震災の被災地に配属された。

そして、その地に生きる方々と、仕事をとおして深く関わるようになった。

 

仕事の「いろは」も分かっていない新人が、マスコミという大きな影響力のあるプラットフォームを背景に、被災地というセンシティブな場所に土足で踏み込む、ということは、とても暴力的だと思う。

もちろん、キャリアの長さは、「仕事」を前に、関係ないけれど。

 

ベテランのジャーナリストたる人たちが、被災地の混乱に乗じて、いかに"被災者”の善意を踏みにじり、心に傷を残していったかも、目の当たりにした。

 

この地とそこで出会った方々に、本当に、いのちや人生という、根源を教えてもらった。

 

新人・ベテランは、こうした場面ではなんの意味もないと、肌で感じた。

 

被災地で、マスコミの一部として働く「業」をひしひし感じながら、新人としての、生き方を模索することになった。

 

ただ、「人間」としての在り方が、問われていると思った。

 

その日々は、たぶん、普通の社会人としてキャリアを重ねるのとは違った苦しさがあった。

実際、新人時代のわたしは、泣きながら、その涙の理由も分からず(いま思い返せばショックによるのだと思うけれど)、涙に無理矢理ふたをして仕事をしていた。

 

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卒業をしてからも、

別の県に配属された親友Rとの友情も、

東京の本社で働き始めた恋人Sとの恋愛も、続いていた。

 

親友Rとは、ときおり手紙のやりとり。 

恋人Sとは、Sが時間を見つけて会いに来てくれることが多かった。

 

わたしはほとんど東京に帰れずにいたので、Sが東北に来て、自宅でごはんを食べたり、ときにはわたしの取材の送り迎えをしてくれたり、彼なりに、サポートしてくれていたのだと思う。

 

・・・ただ、

Sの、仕事の愚痴が、だんだん耐えがたいものになっていった。

 

お酒にあまり強くなくて、社交的に見えて実は根がシャイなSは、営業といった、日本ならではの強制的なお酒も伴う人付き合いに、ついていけなかったのだと思う。

特に、営業職が花形のような、プレッシャーも大きい企業に就職したから、それはそれは、つらかったのだろう。

 

・・・だけど。

 

 

生きるか死ぬかの被災地。生業を奪われて、あしたはどう生きていけばいいのか見当もつかない被災地。

そんな場所で、歯を食いしばって前へ歩こう、生きようとしている人たちの、生き様や生身のすがたに日々触れている私には、どうしても、Sの泣き言が甘えにしか聞こえなかった。

 

「この職場では自分が輝けない」。

「自分が輝くって何?そもそも、働き始めて1年もたっていないのに仕事の何が、あなたに分かるの?」。

 

「つらい。転職したい」。

「働いてお給料をもらえる仕事に就けていることのありがたみって分かる?石の上にも3年っていうでしょう。その仕事自体のよさも分からないまま、すぐに変えるのは良くないよ」。

 

 

わたしの答えは、おりこうさん、だったのかもしれない。でも、いま振り返ってもわたしの本心だ。

だからといって、Sが間違っているわけでもなかったのだと、いまでは思う。

ただ、気持ちが相容れなかった時点で、Sは、関係を続けていけなかった相手だったのだ。人生における判断基準の根本が、ずれていたのだから。

  

 

だんだん彼の存在を、まるで、べったりと這う "スライム” だと感じるようになった。

 

覆い被さってきて、深呼吸したいわたしの呼吸を妨げる。のしかかってきて、自由にのびをしたいわたしの重しになる。

 

要するに、息苦しくなっていったのだ。

 

仕事に希望を見いだそうとすらせず(もしかしたら見いだそうと努力していたのかもしれないけど)、不満を人のせいばかりにして(もしかしたら自分なりに努力をしていたのかもしれないけど)、挙げ句「自分が輝けない」などという彼。

 

自分が輝くって、なんだよ。

ここでは輝けないって、ほかなら輝けるのかよ。輝くって、なんだよ。

自分が評価することじゃなくて、他者がいて初めて分かることじゃないか。

 

ナルシシズムにあふれた彼の言葉に、わたしは強く反発した。

もちろん、会社組織に飲み込まれる必要はないと思っているし、いまでも私自身、自分の会社そのものにたいして愛社精神なんか本当にまったくない(むしろ恥ずかしさしかない)けど。

 

自分の未熟さを棚に上げる彼に、嫌悪感を覚えるようになっていった。

さらに、転職騒動を何度も起こしては、結局転職に踏み切れない、彼の「煮えきらなさ」も、腹が立った。

 

自分がいやなら、ひとがなんて言おうと、転職しろよ。

 

どんな選択肢であっても応援する心持ちでいるのに、選択に踏み切らないくせに愚痴ばかり言う、こちらの思いをことごとく踏みにじる彼の言い訳に辟易して、どんどん、心の距離は離れていった。

 

宮城県内で引っ越しをした私の新しい家の住所を、Rから聞き出して手紙をよこし、「来ないで」という私に構わず、玄関前にSは来た。

 

(私はけっきょく、家には入れずに彼はマンガ喫茶に泊まったけど。。。)

 

その彼の行動と熱意に感動するひともいるのかもしれないけど(いるのかな・・・。客観的に書いたら、ちょっと怖いと思うけど・・・)わたしには恐怖でしかなかった。

 

そして、

 

「もう(つきあうのは)いやだ」と言ったわたしに対し、即座に「結婚して下さい」と言う彼に、拍子抜けもしたし、若干、引いた。

 

 

え、日本語分かっている・・・?って。

ひとんちのアパートの駐車場で、大声で「けっこんしてください」って。こっちは、怒っているんだけど?って。なんなら別れ話切り出しているんだけど?って。

 

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本気で別れ話をしたのはそんなときだ。就職から2年が経った、春。

 

家の玄関先にまでやって来た彼は、最終的に、「半年待って欲しい」と言った。

 

「半年で、自分が変わっていないと思われたらしかたないけれど、半年ください」と。

 

その年の11月。半年待って、東京でわたしたちは再会した。

 

仕事を抜け出てきた彼と、東京駅に出てきたわたし。

 

そして、別れた。

それはもう、予定調和のような。