森の日記

見たこと、知ったこと、感じたこと。

メディア事情の備忘録。

いま、日本とフランスのメディア事情について比較をしていて、おもしろかったので、ひとまずざっくりここにメモ!

 

・2019年3月時点で、日本の29歳以下男性 のスマホ所有率が100%(内閣が実施している耐久消費財普及に関する調査より)。100%って、びっくり。ちなみに女性だと96.6%。ちなみに全体だと55.7%。これはまあ、そのくらいかなと思う。

・一方同時点でのテレビの所有率は、全体だと90.5%。やっぱり日本でテレビはかなり一般的なんだな。ちなみに同じく29歳以下だと、男性は88.6%、女性が84.5%。

やっぱり、いまではテレビよりスマホの時代なのだな。というか、別にテレビがなくてもスマホさえあれば面白い動画も映画も(なんならドラマも)、NHK以外は基本的に全部見れちゃうものなあ。

 

フランスでも同じような傾向があるのだけど(スマホがかなり普及、テレビも相変わらず所有率は高い)、面白かったのが、フランスでは、管理職(高給取り)のひとたちのほうがテレビ離れ進んでいるそう。スマホの普及の点でも、テレビ持ってない率にしても、職人業の人たちよりも高い。

ちなみにここで注意なのは、フランスでは日本と違って「見逃し再生」のサービスがすごく普及しているので、たとえテレビで見られなくてもほぼ当たり前にその局のサイトやYoutubeやDailymotionなどのプラットフォームで見ることが出来る(タダで)。

 

20世紀はメディアの世紀と言われていて、ラジオがあったところへ、映画、テレビ、パソコン、、、と発信・受信の幅がものすごく広がったそうだけれど、21世紀はなんの時代になるんだろう。とにかくスマートフォンの拡大率は、フランス・日本ともにすさまじい伸びで(グラフ見るだけでも面白い)、きっとこれからネットフリックスやアマゾンプライムなどが、いっそうコンテンツ面でのシェアが伸びていくのだろうな、と思う。

日本のスマホ普及率などいろいろまとめている総務省の資料↓

http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h29/pdf/n1100000.pdf

フランス↓

https://labo.societenumerique.gouv.fr/wp-content/uploads/2018/12/barometredunumerique2018.pdf

 

とにかく、YoutubeにしろアマゾンにしろネットフリックスにしろTwitterにしろ、アメリカってやっぱすごいな・・・と思わざるを得ない、今日でした・・・。

 

職業病なのかも知れないけれど。

日本のテレビの報道畑で、これまで、名もない(わけではないけれど、あくまで組織の一職員)ディレクターとして働いてきて、最近、自分自身について考えること。

 

何らかの社会テーマに関する番組や企画を作るとき、表に出る3分や5分の100倍以上、取材をする。

 

取材は、私のやり方だと、まず

キーワードをネットで検索して最近話題になっていることを把握する、

⇒そこから知った著名人・研究者の著書や発言を探る、

⇒新聞記事のキーワード検索でひっかかったものを片っ端から読む、

⇒その上で知った著書を読む。

⇒この上で、じっさいにそのテーマに関わる人と出会うために、現場を訪ねる。

同時並行で進む場合もあるけれど、基本的に、人や現場を訪ねるのは、自分なりに納得してからにしている。

もちろん、実際に現場を訪ねて改めて知ったキーワードや情報をもとに、前のプロセスに戻ることは多々ある。それでも、自力で得られる情報を自分なりに探して咀嚼してから生身の人に向き合うことが、最低限の礼儀だと考えている。

そうして、出来るだけいろんな人の意見を聞くようにしている。なんでかというと、ロケという現実社会にカメラを向ける作業の中では、少なからず軋轢が生まれることがあるから。

とくに、被写体である相手側が複数人いるグループだったりする場合、ぜったいその中の一部はロケに納得しなかったり、メディアへ不信感を持っていたり、そもそもグループに不満を持っていたりする。どれほど素晴らしい取り組みをしている組織であっても、「ここにいる全員ハッピー!」「全員大満足!」みたいな現場って、いままで、出会ったことがない。

だから、私は、時間の許す限り、関係者全員に声をかけ、少しでも思うことを聞き出せるようにしたい、といつも思っている。(正直これは、現実的な時間の制限などもあって必ずしも毎回できているわけではない。でも、いつも、心がけている。)

 

そういうプロセスを繰り返してきて最近思うのは、物事は多面的であると言うことだ。ある人にとって当たり前に見えている世界は、少し角度変えてみると全然違って見えることが多々ある。というか、世の中のほとんどすべての出来事が、そういうものだ。

 

たとえば、「安くて質のいい物」は、多くの人が喜ぶ。でも、それは、作り手側が安く買いたたかれているからなのかもしれない。

「美しい自然」は、人から愛される。ただ、その自然は本当に "自然” なのか。作り込まれた人工のもの、もしくは本当の自然に害を及ぼしていないのか。

「コンビニ」も、現代社会の暮らしを力強く支えてくれていて、もう、コンビニなしの生活は考えられないくらい、日々の生活に浸透している。でも、背景にものすごい量のプラスチックゴミや食糧廃棄がある。

 

「いのちはたいせつ」だと多くの人が言う。「一寸の虫にも五分の魂」ということばもある。でも、ひとはゴキブリを見たら退治するし、害虫は駆除される。言うなれば害虫だって、単純に生きようとしているだけなのだ。

 

こういう風に考えていくと、あたまのなかがぐるぐるしてくる。でも、企画を作るときには自分なりの筋を持たないと、構成が出来ない。

なので、わたしはあえてあたまのなかをぐるっぐるにして引っかき回してから、ものすごくシンプルに立ち戻って考え直す。その上で、自分なりの「視点」をみつける。

こうしておくと、編集や構成の際にいろいろな人から突っ込まれたり、反対されたりしても、自分自身がぶれないので、個人的にはとても大事なプロセスだと思っている。(ただ、信念を持つことと頑固であることは違うので、もっとよい意見や自分が盲点だった場合には、指摘を受け入れられるような謙虚さと柔軟さも持ちたい。これは、いまも日々修行中。。)

 

だから、(この仕事自体は大好きだけれど)自分の職業であるメディアについてもテレビというフィールドについても、かなり批判的だ。いまの仕組みにも、納得はしていない。というか、不満だらけだ。だから、たまに息苦しくなる。

 

ここのところ、ネットで話題の「NHKから国民を守る党」そして「全裸監督」について、もやもやと考えていて。

「N国」も、その存在はものすごく多面的だ。彼らの主張がすごくシンプルだから取り上げられがちだけど、それ以前に、政治のシステムはすごく複雑で、民主主義ってなんなのか、政治家の仕事ってなんなのか、きちんと理解をした上で、彼らの言葉を受け止めなくてはいけないと思っている。

ネットの時代だとそれじゃ遅すぎるのかな・・・って思ったりもしたのだけど、でもやっぱり、いったん立ち止まって、ほかの角度からも見つめてみることは大事だと、そしてそれは「私たちがやらなくてはいけないこと」なのではないかと、私は思う。

 

「全裸監督」は、とにかく、ネットフリックスの日本への本格的な到来だ。テレビや既存のメディアがいかに時間をかけて自分たちの "出来ないこと" を(知らず知らずに)増やしてきたのかが、とても浮き彫りになっている。クリエイティブという点で(内容すべて含めて)本当、いろんな意味で面白い。

なのだけど、やっぱり、ネットフリックスがネットフリックスでやることと、メディアがやることは違う、と思っている。

もちろん日本のメディアでもドラマやエンタメなどたくさんのコンテンツが作られているし作られてきたけれど、本質的に、テレビやラジオの根幹は「報道」だ。世の中で起きていることを、きちんと検証し、わかりやすく正確に伝えること。人が考える判断材料を提供すること。視聴率を追いかけるのではなくて、視聴率に追いかけてもらえるような信頼性を得ることが、いまやるべきことなのではないか、と思う。

 

まじめなつぶやきでした。

皆さんはどう思いますか。

文化について、とりとめもなく。

文化というものは、面白い。

どこの国にも、いい人もいれば悪い人もいるわけだし、社会の仕組みはどこでも似ている部分が少なからずある。

(たとえばパン屋さんはどこの国でも早起きだし、便利屋さんみたいな怪しげだけど困ったとき便りになる人ってどこにでもいるし・・・。私の業界で言えば、これまで出会ってきたさまざまな国のジャーナリストは得てして好奇心が強くて多様性に寛容、カメラマン・音声マンはちょっと野性的な男性が多い印象がある。)

それでも、その国ごとの「文化」は、似ている部分があるとしてもなんだか全然違うのだ。

朝鮮半島・中国・日本(そして台湾や香港も)は、ヨーロッパの人にしたら同じにされがちだけど全然違うし、アジアからしたらイタリア人・フランス人・スペイン人などの区別は正直けっこう難しかったりするけど、正確に言えば気質も見た目も全然違うわけで。

□■□■□

そんな中で、たとえばフランスと日本でも、似ている部分がある一方で違う部分が少なからずあるわけだ。

おととい記事を書いた芸術家のA.K.さんは、それを農耕文化と狩猟文化の違い、と話していたのが面白かった。

日本はもともと農耕、集団で生活している。土着の民族であり、共同体の中で生きる。

フランスのようにヨーロッパ大陸の国々は、狩猟、より良い土地や暮らしを求めて戦い続けてきた。

オランウータンとニホンザルの違いでも説明してくれたのだけど、こういう視点で考えたことがなかったから、新鮮だった。

□■□■□

あと、香水の話。

香水って、つきつめてみれば単なる水。もちろんさまざまな香りがあるけど、3~4こ嗅ぐともうだんだん匂いなんて分からなくなってくる。

しょせん、器(ガラス瓶)と、プロモーション(イメージ作り)の結果なのだ、と。

それは確かに。みんながランコムとかディオールとかシャネルなどのブランド香水を買うの、もちろん匂いが好きというのもあるかもしれないけど、CMで流れる美しい女優や風景に惹かれるあこがれによるところが多い気がする。

そんななかで、香水の調香師から聞いた話をおしえてくれた。じつは最終的に人間が惹かれる匂いというのは、どこか腐敗した匂いなのだと。それは生まれる前の子宮の匂い、母親の匂い、体臭、体液など・・・。

これも確かに、と思った。

じっさい、男女の関係って、出会ったときにびびっと来たり、お互いを好きになるとき、「におい」って重要だったりすると思う。

わたし自身は男性とつきあった経験がそんなに多くないけど、夫の前に、人生で長くつきあったひとは、いちばん好きだったときはその人の鼻息が好きだった。なんだか、マスカットのような匂いに感じられたのだ(・・・と書くと変なひとか・・・?)ちなみに、別れる前にはちっともその匂いが感じられなくなった(それも根拠はないのだけど。単に近寄らなくなっただけかもしれない。。)

夫は、形容しがたいのだけど、やっぱり私はその匂いがとてもすきだし、嗅ぐと安心する。夫もわたしの匂いがすきとよく言う。それは、石けんとかシャンプーとかそういう匂いもまじりあっているのだけど、その人ならではの匂い、ということ。

 

こういうことって、あまり話しはしないけど、ぜったいにあると思う。

人間の相性、好きになる人って、遺伝子レベルで合う・合わないが決まっている、という話は聞いたことがあるけれど、それに通じることだと思う。

 

人間だってしょせんは動物なのだ。

そして、動物である人間はけっして「きれい」ではない。文明の進歩によって ”清潔” に保つ術を身につけただけだ。そして、「きれいごと」を言う術も。

 

□■□■□

文化や表現って、そうした「きれい(文明)」と、「動物(本能)」の狭間の、屈折した部分からうまれる面もあるのではないか、、、と思っている。

 

たとえば単純に映画にしたって、特にヨーロッパのもののほうがそうした闇に目をむけた作品が多い印象があるのだけれど、

日本でも大ヒットしたフランス映画「アメリ」だって、正直言って決してかわいいだけの映画ではないし、

スペインの巨匠ペドロ・アルモドバルの映画は、かなりセクシャルで癖が強い(「トーク・トゥー・ハー」等・・・)。

最近では#MeTooをきっかけにウディ・アレンの養女への性的虐待が議論を呼んでいたけれど、そうした疑惑は昔からあった。

私は高校生の時に見た「戦場のピアニスト」に大きな影響を受けたのだけれど(第75回アカデミー監督賞や主演男優賞を受賞、第55回カンヌ映画祭でパルムドール受賞)、当時、その監督ロマン・ポランスキーが、「”少女への性的虐待”による逮捕・収監の可能性があるためアメリカにわたれず授賞式不参加」という事実にものすごくびっくりした。

 

けっして、「芸術のためには闇が必要だ」「性的虐待も肯定される」と言いたいわけではない。けっして、ない。

でも、人間の闇を「表現」というかたちで昇華させている部分、そこから文化が形作られている面も、社会には少なからずあるのではないかと思う。

 

「アーティスト」であるということについて思ったこと。

きょうからまた一週間が始まった。

 

週末、すてきな出会いをいただいたので、そこで聞いたこと、考えたことについて、書き留めておこうと思う。

このあいだ書き留めた、在パリ日本人の方と出会えたのです!目標、ひとつクリア。

もちろん今後も機会があったら出来るだけ広げようと思うけれど。

 

訪ねたのは、A.K.さんという画家のアトリエ。40年以上、パリに根付いて絵を描かれている。(たった2年しかパリに住んでいない私には、想像もつかない。)

Kさんがパリに来たのは、まだ学生運動(五月革命)の余韻の残る時代。五月革命とは、1968年5月にパリで行われた学生主導の大衆一斉蜂起、そしてそれに伴う政府の政策転換のこと。(※ちなみに、1968年は、世界各地で大きな運動が起こった年。アメリカのベトナムへの反戦運動や中国の文化大革命、日本では全共闘、チェコのプラハの春など・・・。)

Kさんにとって、パリの町は「黒かった」そうだ。多くの建物が黒かったと。そして、日本で尖ったアートを発信していたKさんにとって、フランスは、日本で見ていたときよりずっと「面白くなかった」と感じたそう。それはフランス人の持つ保守性(アーティスト界隈での縄張り・人脈社会)や、オスマンスタイルの画一的な町並みによるもの。

そんな「面白くない」と感じたパリで、そして、Kさんの言うとおり保守的で人脈社会のフランスで、日本人のアーティストとして、しなやかで自由で多彩な発信を続けてきた、そして今も。という事実に、すなおに感動する。

 

アトリエの壁全面に立ち並ぶ、直径6メートルや7メートルもの大きなキャンバスいっぱいにさまざまな素材や絵の具で全面に広がる世界に圧倒された。青、赤、黄色、オレンジ、深い青、銀、黒・・・太さ、かたち、表現、ストーリー。

Kさんは、ひとつの絵の描き方として、街作りにたとえて話をした。東京の町並みは、たとえば戦後にひとつの街のかたちが出来た。その10年後、少しの開発で街の形が変わる。そしてまたその数十年後、再開発が行われる・・・。日本の街は、そんな風に変化してきた。たとえば新宿の、ゴールデン街がある界隈なんかはとてもわかりやすい。巨大ビルの後ろ側に突然神社があったり、風俗街の後ろに突然保育園があったり。

Kさんがそんなふうに、10年、また10年と、同じキャンバスに少しずつ(前に描いたものは消さずに上から重ねて)絵を描いた作品は、まとまりはないのだけどとても立体的で、さまざまな色や線がつらなるベースのなかから浮き出るひとの表情のようで、でもよく見るとつかみどころのない、とても不思議な風合いの作品だった。

 

聞くと、何かストーリーだとかテーマ、構成を考えて作るようなことはなく(もちろんそうして作り上げるアーティストもいるけれど)、思うがままに、描いていくのだという。そして、ストーリーが浮かんできたときは、あえてそのストーリーを壊し、また作り上げ、壊し・・・と続けていくそうだ。

 

とってもおもしろい!と思った。

私には、いまの社会は、「ストーリー」を求めすぎていると感じられていたから。

人間はそんなにきれいな生き物ではなく、失敗したり、欲望に負けたり、そのあと立ち直ったり、でもきれいには行かなかったり、、、という、矛盾した生き物だ。なのに、サクセスストーリーとか、きれいな感動話だとか、そういった「簡単」なものを求めすぎているように感じて。

ひとはそれぞれ、自由に感じたり、紡いだり、考えたりしていいのだ。「アート」は、そのバッファをくれる存在なのだ、という基本中の基本を思い出した。

 

そして、いまの時代、どんどんテクノロジーや人工知能が広がっているなかで、人間が人間でなくなってしまう時代がまもなく来るのではないか、という危機感。そこに収まらない空間に、アートがある。そんな話も。

 

□■□■□

ここから以下は私の考察だけれど。

いま、AIや加工技術によって、普通の人でもものすごく簡単に「それなりに」きれいな写真を撮ることが出来たりする。

そして、H&MだとかZARAだとか、IKEAとかHEMAとかフライングタイガーだとか、お金がなくても「それなりに」かわいいものを簡単に安い値段で手に入れることが出来たりする。

それはとてもすてきなことで、より多くのひとたちが、より気軽に心が上がる、暮らしを楽しむことが出来るようになった。

でも一方で、それは、大量生産による大量消費であり、こうしたブランドの普及によって、持っているもので工夫する、自分なりの模索をする、といった「創意工夫」の余白が減ったように感じる。それは、「自由」が見えにくくなる世界でもあると思うのだ。

 

「それなりに」美しい世界に生きる私たち。

でも、本当の美しい世界って、これでいいんだっけ?と、思う。

 

□■□■□

ちなみに、Kさんのアトリエにたくさんある巨大な作品たちは、単にキャンバスを買って仕上げるためだけの材料費だけで安くても3000ユーロ=35万くらいは余裕でかかるそう。そしてもちろん何ヶ月も時間がかかる。

そう、そうして生まれるのが、アートなのだ。

 

□■□■□

アーティストでいるって、やはり現実的にはたいへんなことだ。

家族の中に多少なりともアートをなりわいとする者が少なからずいる身として、私自身にもきっと、美術大学や表現の道に進む選択肢は、あった。というよりきっと、小さい頃から、そうした刺激やきっかけ、チャンスはほかのひとよりずっとたくさん与えられてきた、と思う。

でも、だからこそ、アートで自分を表現し続けるひとたちを、本当に、尊敬する。それは、仕事として、というよりも、生き方として表現を続ける人たち、ということ。

私は、そういうひとたちの心の中には、わき出る ”感情の泉” があるのではないかと思うのだ。そして、私には、それが、ないなあ、とも。

・・・いや、あるのかなあ。

かたちは違えど、あるのかも、しれない。

 

でも、それを全面に打ち立てられるのは、やっぱり、すてきだ。

 

きょうは単なるつぶやき。

※先日寝ぼけて書いたのだけど、改めて読んで(普段ってあまり読み返さないのだけど・・・)ちょっとあまりにもとりとめがなかったので、すこし修正する(恥)←8月14日現在。※

 

きょう、ものすっごく久しぶりに、パソコンを持たずに出かけました。

日本人でこちらに長く暮らしている方と初対面でブランチをして、そのあと、久しぶりにパリの左岸(おしゃれ・シックなエリア)をさんぽした。

とくに、ボン・マルシェへ!

ボン・マルシェというのは、とにかく「おしゃれ」というイメージを持たれがち(だけど現実は甘くない)パリにおいて、ほんとうに質が良くすてきなものが買える、ということで知られる高級デパート。

 

まあ、私は何も買わなかったのだけど・・・!

なんか、昔から、すてきなものがたくさんあるところへいくと、おなかがいっぱいになってしまって、「ああ。そうなんですね。」と、それで満足して帰ってしまう傾向にある(じぶんで書いていて意味が分からない・・・)。だから、洋服とかを買うのもものすごく苦手。化粧品とかも、苦手。。。

 

それはいいとして。

ボン・マルシェのとなりにあるこぢんまりした公園でひとやすみをして、そのあと、アニメ映画「海獣の子供」を、フランス語字幕付きで見て、帰ってきた。

 

きょうはその、とても私的な、とても主観的なつぶやき。

 

 

まず、出会いって、偶然のたまものだなあ、と思います。

とくに、フランス流の社交が苦手な身としてなおさらかもしれないけれど、素直な感覚として、仲良くなれる人たちへの限界があると思う。そしてそれはフランスも同じ。

フランスって、歴史的にも「社交」が重視されてきたこともあるんじゃないかと思うのだけど、アペリティフだとか立食パーティーを気軽に開催する。初対面の人と会話を交わし、人脈を広げることが、その後のキャリアに直接的に役立つ社会でもある。

(「だれと知り合いである」ということが、本当に就職に大きな影響を及ぼすから!これは本当。LinkedInの世界なのです。)

なので、表面的なユーモアやオープンマインドは、日本よりずっとスムーズ。

対して日本人は、「コミュ障」ということばもよく聞くように、初対面での会話だとか、社交が苦手だと思う。かくいう私も苦手で、できれば逃げたくなる。。。(日本人だからって言い訳しているだけか。単なる私の性格です・・・)

 

でも。

根底は同じだとも、強く思う。

じつはフランス人って、とてもシャイで、本当の意味で「仲良く」なれる人ってものすごく限られるのだ。表面的なつきあいからその”次”に進むのは、とても難しい。

 

何が言いたいかって、だから、世の中のあらゆるものや出会いって、単にぱっと「好き」とか「きらい」とかひとことで片付けられるものではなくて 、ことばにしきれない、いろんな理由があるということ!

 

そういう感覚とか、単に海が好きとか、いろんな感覚・感情がまざりあって、「海獣の子供」、私は好きでした。

海のそばに行きたい。

 

皆さんは、どうですか?

 

殺人事件数の比較について。フランス、日本、あと、アメリカ。

きょうはニュースから!

 

フィガロに出ていた、フランスで過去3か月の殺人数が急増した。という話題。

premium.lefigaro.fr

過去3か月(5月~7月)のあいだに248の殺人事件が起きたとのこと。これは内務省が発表したもので、前3か月とくらべ殺人は16%増加。とくに、5月が72件、6月に75件なのに対し7月だけで101件発生したとのことで、飛び抜けて7月が多い。

7月25日、90歳代の女性が自宅で強盗に襲われたまま衣類の山の下から遺体となって発見された事件。同日、2月末に17歳の青年を殺害した別の事件で2人が検挙された。別の地方では、夕方に犬の散歩に出かけたアルメニア人の男性がナイフで何度も突かれた事件が起きた。、、、など。

 

私はこれを聞いて一瞬「"猛暑”のせい・・・?」と思ったのだけど、それは記事内であっさりと否定されていた。それよりも、専門家によると別のカギがあるとのことだ。

まずは、もともとコルシカ島の名物(特徴)だったという「復讐」が、都市部のやくざたちが彼らの仇を討ち始めたことで全国に広がったのだと。

こうした仕返しは2018年には少なくとも77件起きていて、その83%のケースにおいて、麻薬取引に関する "契約"としてなされている。

そうした組織的な犯罪の増加に加えて、専門家によると家庭内暴力に関する暴力の増加傾向が関係しているとのことだ。去年1年だけで121人の女性がパートナーによる暴力で亡くなっている(DV)が、事件数はかなりの野蛮さを持って増加している。

7月25日には、(DVが理由で監視下に置かれていた)夫が、妻を車で壁に向けてひき殺すという事件がおきた。

28日は、30代の妊婦が背中から何発か銃弾を受けて亡くなった状態で車内から発見された。彼女は自身の子どもたちを引き取るために元パートナーのもとを訪れようとしていたところだったという。

 

□■□■□

ちなみに気になって調べたところ、

日本は三か月ごとでは出ておらず、今年1月~6月での殺人事件は全国で488件とのことだ(前年度同時期から26件増)。

※ここには7月18日に発生した「京都アニメーション」放火事件は含まれていない。

犯罪統計 平成31年1月~令和元年6月犯罪統計 2019年 | ファイル | 統計データを探す | 政府統計の総合窓口

ちなみに留意すべき点として、日本の人口はフランスの約2倍(日本は約1.3億人。フランスは約6700万人)。

そう考えると、やっぱりフランスの方が殺人事件の件数は多いと思う。

(・・・なぜというと、ものすごく単純計算だけど、今期が前期の16%増で248件だとすると2~4月は214件発生。そうすると6か月で462件だ。日本の二分の一の人口で、同じだけの事件数だから。)

□■□■□

 

ただやっぱり、個人的には、その背景にある人と人のやりとりをきちんと理解・検証することも重要だと思う。

どんな理由で事件起きたのか。どんな方が亡くなられたのか。どうして殺人を犯してしまったのか・・・。そこに解決の糸口があるとも思うから。

 

□■□■□

ちなみに銃社会・アメリカでは数日前(8月5日)、タイムからこんな記事が出ていた。

time.com

2019年のこれまでで(つまり1月から8月までということ)、銃による死者がすでに62人だそうだ。

この数について、銃が一般的ではない日本だと(フランスでも)多いとも少ないとも言えないけど、負傷者が複数の発砲事件がほぼ毎日起きている、という事実には、びっくりする。

Mass Shootings in 2019 | Gun Violence Archive

 

よく、たとえば「男女平等」や「表現の自由」などで「アメリカでは~」とか「ヨーロッパでは~」という引き合いに出す論理を耳にする。

確かに、ある点においては見習う点べきがある。けれど、そのほかの点では必ずしも見習うべきでない点もある。

すべては相対的で、パーフェクトな国、パーフェクトな場所、パーフェクトな人なんて存在しないのだ。

だから、いろいろなものを見比べて、ベターを考えるのが、やっぱり大事だと思った。

 

皆さんはどう思いますか。

テレビ、ラジオ、新聞、ネット・・・情報についての一考察。

きょうの夕方、ツイッターに熱をこめて発信してしまった。

どこまでつぶやき?どこまでブログ?いろいろネットの模索を続けている。

 

きょう、ずっとメディアの歴史の本を読んでいて、知らなかったことや気づいていなかった視点がたくさんあって、なんだかはっとしてばかりの一日だったのです。

 

□■□■□

私は、マスコミということばが昔からあまり好きではなく、自分の仕事のフィールドについても、「メディア」だと言うようにしている。それはなぜなのか、あんまりちゃんと考えたことがなくて、改めて検討してみた。

 

マスコミということばは「マス・コミュニケーション」から来ている。このことばは、直訳すると「大衆伝達」となって、マス(大きな)フレームでコミュニケーションをするということ。不特定多数のマス(大衆)に大量の情報を伝達すること。

 

個人的な感覚なのだけど、この「マスコミ」ということばがきらいなのは、なんだか "一方的" な要素が強すぎると感じるから。

けっきょくのところ、テレビ局だって新聞社だって、視聴率やら広告収入やら受信料に左右されていて、「一方的」に発信者から受信者へ流しっぱなし、なんてことはない。いや、もちろん、SNSにくらべても圧倒的に、”一方的” なのは現時点では事実だし、その事実を否定するつもりはない。

それよりも、どっちかというと、「マスコミ」ということばを使うことで、発信者側も、受信者側も、思考停止している感じがする。

だから、いや。

「マスゴミ」っていうことばもきらい。

「マスコミ」を「マスゴミ」にしているのは、視聴率や広告を支えている(選んでいる)ひとりひとり、あなたでもあるのではないか。と、思うから。

 

メディアということばは、「メディウム」(中間)という意味の複数形。つまり、「媒体」だ。

こちらは、もう少しフェアな気がしている。ニュートラル、というべきか。

ひとは生きている以上、基本的に他者や社会との関わりを免れることはできない。そんな生活の中で、あらゆる情報を受け取り、発信し、交換し、選びながら、自分の生活を保っている。無数の情報交換の末に、わたしたちの生活は成り立っている。

その情報たちの「媒体」となっているのが、テレビであり、新聞であり、ラジオであり、ネットであり、、、なんだと思う。

「メディア」ということばの方がフェアだと思うのは、「媒体」であることを忘れさせないから。「媒体」はしょせん「媒体」でしかない。

神様ではない。

だから、偏見だとか勘違いだとか、ぜったい混じる。「ピュア」な情報なんて、ありえないのだ。

SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)も、いまではりっぱなメディアだ。

すべて発信される情報は、しょせん人間が取材してまとめているんだから、パーフェクトなわけがないのだ。

 

□■□■□

じゃあ、いまの時代にあった、情報のありかたってなんなんだろう。

ここらへんはまだ、答えが出ていない。

「事実」は事実とすること。「私見」は私見に過ぎないこと。

メディア・リテラシーの問題なのかなあ。

 

みなさんはどう考えますか?????