森の日記

見たこと、知ったこと、感じたこと。

テレビ、ラジオ、新聞、ネット・・・情報についての一考察。

きょうの夕方、ツイッターに熱をこめて発信してしまった。

どこまでつぶやき?どこまでブログ?いろいろネットの模索を続けている。

 

きょう、ずっとメディアの歴史の本を読んでいて、知らなかったことや気づいていなかった視点がたくさんあって、なんだかはっとしてばかりの一日だったのです。

 

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私は、マスコミということばが昔からあまり好きではなく、自分の仕事のフィールドについても、「メディア」だと言うようにしている。それはなぜなのか、あんまりちゃんと考えたことがなくて、改めて検討してみた。

 

マスコミということばは「マス・コミュニケーション」から来ている。このことばは、直訳すると「大衆伝達」となって、マス(大きな)フレームでコミュニケーションをするということ。不特定多数のマス(大衆)に大量の情報を伝達すること。

 

個人的な感覚なのだけど、この「マスコミ」ということばがきらいなのは、なんだか "一方的" な要素が強すぎると感じるから。

けっきょくのところ、テレビ局だって新聞社だって、視聴率やら広告収入やら受信料に左右されていて、「一方的」に発信者から受信者へ流しっぱなし、なんてことはない。いや、もちろん、SNSにくらべても圧倒的に、”一方的” なのは現時点では事実だし、その事実を否定するつもりはない。

それよりも、どっちかというと、「マスコミ」ということばを使うことで、発信者側も、受信者側も、思考停止している感じがする。

だから、いや。

「マスゴミ」っていうことばもきらい。

「マスコミ」を「マスゴミ」にしているのは、視聴率や広告を支えている(選んでいる)ひとりひとり、あなたでもあるのではないか。と、思うから。

 

メディアということばは、「メディウム」(中間)という意味の複数形。つまり、「媒体」だ。

こちらは、もう少しフェアな気がしている。ニュートラル、というべきか。

ひとは生きている以上、基本的に他者や社会との関わりを免れることはできない。そんな生活の中で、あらゆる情報を受け取り、発信し、交換し、選びながら、自分の生活を保っている。無数の情報交換の末に、わたしたちの生活は成り立っている。

その情報たちの「媒体」となっているのが、テレビであり、新聞であり、ラジオであり、ネットであり、、、なんだと思う。

「メディア」ということばの方がフェアだと思うのは、「媒体」であることを忘れさせないから。「媒体」はしょせん「媒体」でしかない。

神様ではない。

だから、偏見だとか勘違いだとか、ぜったい混じる。「ピュア」な情報なんて、ありえないのだ。

SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)も、いまではりっぱなメディアだ。

すべて発信される情報は、しょせん人間が取材してまとめているんだから、パーフェクトなわけがないのだ。

 

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じゃあ、いまの時代にあった、情報のありかたってなんなんだろう。

ここらへんはまだ、答えが出ていない。

「事実」は事実とすること。「私見」は私見に過ぎないこと。

メディア・リテラシーの問題なのかなあ。

 

みなさんはどう考えますか?????