森の日記

見たこと、知ったこと、感じたこと。

"記者"と"ジャーナリスト"

新しいこと、自分がまったく想像つかないことに挑戦していると、体感的に、時間が過ぎるのは「ゆっくり」「みっちり」に、感じる。でも、実はあっという間に過ぎて、1日を必死で生きていると、すぐに次の1日が始まる。

それなのに、過ぎた後に思い返すと、ものすごく時間がたったように感じる。先週の月曜はわたしにとって、1か月くらい前のことのように感じる。

そんなこと、ありませんか?

 

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はい。先週ぜんぜん更新できていなかった言い訳です。

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でも、この感覚は本当にあっていると思っている。

子どものころ、時間がたつのが毎日ゆっくり、長かった。ゆっくりで、たとえばクリスマスとか誕生日とか楽しみを前にしているととくに、次の日がまちきれなくて退屈に感じることもあった。

それがなぜかというと、「経験値がまだ少ないから、ひとつひとつ次に何が起こるか予想がつかないから」で、おとなになるにつれて「1年あっというま!」となっていくのは「経験値が増えて、どんなことも "想定内"」が増えていくから、という話をどこかで聞いたことがある。

 

本当なのか、根拠は分からないけど、私はこの話にしっくり納得した。

なんでかというと、私にとって、震災後の東北で過ごした日々は本当に毎日が予測不可能で、時間がすごくたくさんあるように感じた。

"退屈"はまったくしなかったけれど(そもそも退屈というのは、これまた「楽しい時間の過ごし方」を知らないからなんだと思う。いまは退屈なんてしない。)、とにかく時間がゆっくり、長く感じた。発見の連続で、「みっちり」「ぎっしり」だった。でも、必死だったから、1日1日がものすごく早くも感じた。

 

うまく書けているかな。。

ただ、時間って本当におもしろい。体感と、物理的な時間って、ちがうもんね。時間って、わたしたちひとりひとりのなかに棲み着いた生き物のように思う。

 

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なんでそんなことを書いたかというと、先週から新しい仕事をしていて、新しい職場で、とにかく毎日必死に生きていたら1週間が過ぎてしまったんだけど、振り返ると月曜が1か月前のようにも感じたのです。だけど、あれ?その割に、ブログだとか勉強だとか、ぜんぜん出来ていない。なんでだろう、、、と思って浮かんだのが、この「時間」の話。

 

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「記者」と「ジャーナリスト」の違いを最近、よく考える。

 

日本では、マスコミュニケーションで働くひととしては、「記者」ということばを使われることが多い。「ジャーナリスト」というと、フリーランスのひとたちのイメージではないだろうか。

(戦争ジャーナリスト、とか、フォトジャーナリスト、とか。たとえばシリアの取材などでは、山本美香さんや安田順平さんが浮かぶひとも多いのではないだろうか。)

 

読売新聞や朝日新聞で記事を書いているひとを「ジャーナリスト」というのは、たとえば他局の番組にもゲストとして呼ばれるようなよほど著名なひとでない場合をのぞくとそんなにないだろうし、NHKやテレビ朝日で報道に携わっているひとのことも、「記者」とか「ディレクター」「プロデューサー」とは言っても「ジャーナリスト」という表現はしっくりこない気がする。

 

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ちなみにフランスでは、「ジャーナリスト」というのは「医師」や「技師」のような、専門職的な意味合いが強い。「プレスカード」を国によって発行されているひとたちのことだ。

 

そして、日本の報道関係者が、就職活動によって採用され、就職したあとに "1" からノウハウを学んでいくのが一般的であるのに対し、報道の世界に入るにはまず、「Ecole de Journalisme(エコール・ド・ジュルナリズム)」というジャーナリズムの専門学校(大学卒業後に進学する、院の専門化したもののイメージ)で勉強するのが基本だ。そこでは、メディアの歴史など一般的な講義にあわせて、テレビ、新聞など書くメディア、ラジオ、というみっつの業界それぞれの技術的な知識を身につける。たとえばテレビならカメラ・音声機具の扱いから編集、カメラに向かって話すスキル。新聞や雑誌では、みずから書く雑誌を作る実習。ラジオだと、じっさいにラジオ番組を制作・校内放送する、など。

(ちなみにここで言っているのは、日本で言う「記者」や「ディレクター」を目指しているひとたちの話で、専門のカメラマンなどになるひとたちはまた違った学校へ行く。)

日本でもカメラや音声など技術職であるひとはもともと専門学校や大学で勉強してくるひとが多いけれど、記者やディレクター職につくひとのどれくらいが、大学時代にそうした実践スキルを身につけているだろうか。

 

ちなみに私ももちろん残念ながら平凡な日本人なので、そうしたきちんとしたジャーナリズムの基礎を学ぶ機会は就職するまで全くなかった。個人的にメディアには関心があったので、「メディア論」に関する授業や課題は積極的に学んできたが、どちらかというとそれは学術的な視点で、実践的なものでは全くなかった。

だから、デジカメの扱いなんかもものすごく苦手だったし、編集機で思うように編集できるようになるまでも、ものすごく時間がかかった。(自ら映像制作技術を身につけてたYoutuberの皆さんに、当時の私は、あたまが上がらない。。)

、、、と、こう書いていても、なんだか情けなってくる。

ただひとつだけ今振り返ってラッキーだったな(もしくは良かったな)と思うのは、学術的な視点でメディアを論ずる授業を多く受けていたことだ。たぶん、わたしが心理的に客観的な距離をとり続けているのは、もともとテレビに関心が低かったという性分もあると思うけれど、こうした授業の中で批判的な意見をきちんと聞き続けてきたからだ。でも、批判的な視点を身につけ過ぎて、TV局に入ったくせに、メディア不信がものすごく強い、というのもあるけど。。(就活の時にも堂々とメディア批判を続けてて、いま思うと、どんな向こう見ずだったかと思う。。)

 

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そう。

わたしが思ったのは、

こうして教育・訓練されて「ジャーナリストである」という自覚を持っているフランスのジャーナリストたちと、

一気に始まる就職活動のなかのひとつの選択肢としてメディアを目指し、「ゼロ」から夜回りだとか記者クラブだとかロケだとか編集だとかもろもろを学んでいく日本の記者たちの、精神面・物理面での "違い" だ。

 

昔から、日本のメディアで働くひとたちは、そもそも就職した時点で「終身雇用」がある程度は保障されており、その企業ごとの「ゼロからのジャーナリズム教育」がなされていくので "飼い慣らされる" と批判をされてくることがあった。

それと比べて、フランスのメディアで働くひとたちは、まず「一個人」としてジャーナリストであり、その上で働くテレビ局や新聞社を選んでいるのだ。(そのため、業界内での転職は当たり前。かなり流動的な世界なので、安定性はあまりない。)

 

「自立」の度合いが、ぜんぜん違うな、、、と思うのです。

 

個人的には、日本には「記者」はいても「ジャーナリスト」はほとんどいないんじゃないか、と思う。でも、それじゃダメだ、と思う。もっと、メディアの中にいるひとが、組織に頼らず(もちろん組織を利用することは大事だけど)とくに精神的に、自立することっでものすごく大事だと思う。

 

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ここからはわたしの話。

だからこっちに来て最初のころ、フランス語で自分を「ジャーナリスト」と説明することに、気が引けていた。なんか、プレスカードも持っていないし、カメラの使い方もいろんな人に聞きながらの我流だからまだまだ詳しくないし、こちらの人たちに比べて若いし。。。(こっちだとそうした専門学校に入るために浪人するひともいるし、ジャーナリストはえてして年を重ねた人のほうが多い印象のため)

 

しかし、時間がたつにつれて、そういう思いが変わったことも、また事実だ。

フランスにはフランスの風土・歴史があって、仕組みがある。日本には日本にあった社会の仕組みがある。どちらかが正解でどちらかは不正解、ということは決して、ない。

(ただ、"より良くするために"、ほかの例で良いところをみつけたら、それを素直に受け止めて、吸収することがとても重要だとは思っている。)

 

私はきょうまで生きてくるなかで、ジャーナリズムを志す「強い信念」があったわけでは決してない。ただ、社会への自分の関わり方を考え、ときには環境的な影響も受けながら、模索を続けてくる中で、いま、ここにいる。

 

そして私は、自分の納得する定義における「ジャーナリスト」でありたいと思う。

フランスのようにわかりやすい「プレスカード」はないけれど、フランスでみんなに言っているように、日本でも「ジャーナリストです」と言える人間になれるよう、精進したいと思う、きょうこのごろなのだ。(ただ、一方で日本社会の「ジャーナリスト」に対する理解もまだまだ進んでいない気がするので、それはそれで、日本の社会がもっと、ジャーナリズムやメディアの影響について自覚的にならなくてはいけないのではないかと、個人的な危惧として、考えています。)

 

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ちなみにもうひとつ、フランスのテレビ報道において、「いいな」と思ったこと。

"アナウンサー" はいないこと。ニュースや報道番組、討論番組に出ているキャスターはみんな、ジャーナリストであり、皆、スキルと専門知識と責任感を持ってカメラの前に立っている。だから、政治家との生討論番組であっても、自分のことばで切り込むことができるのだと思う。

「女子アナ」とかいったり、芸能人とまぜこぜになったりしている時代が、そろそろ変わるころになるといいなあ、、、と思ったりもする。(アナウンサーさんの仕事を否定しているのではなく、これもまた、「自覚」の問題なのかもしれないけれど。)

 

みなさんはどう思いますか?