森の日記

見たこと、知ったこと、感じたこと。

74年前のあなたへ。

人は生まれる場所も時も選べないことを、最近、よく考える。

 

よく、妊婦さんや赤ちゃんの話で、「赤ちゃんは空からママ(あなた)を選んできたんだよ」という話を耳にする。それはきっと、ほんとうにそうなのだろうな、と思う。そして同時に、そんな、あたたかな記憶ややりとりが、すべてのひとのもとにあればいいのに、と思う。

 

 

異国であるフランスにいると日々、自分が異邦人であることを感じる。

移民社会であるフランス、特にパリは、本当に多様な人種が複雑に混じり合い、その言語についても、文化についても、ものすごく複雑で豊かであるけれど、それにしても、紛れもなく自分のルーツとは違った文化・歴史的背景がある。(もちろん、それがいい、悪い、というのはまったく別の話。)

 

フランス人に生まれるのか、日本人に生まれるのか、もしくは、アルジェリア系フランス人として生まれるか、パリ20区内に生まれるか、郊外に生まれるのか。リビアから逃れてきたお母さんのおなかのなかから生まれるのか。アメリカの富豪のもとに生まれるのか。

 

 

ママを空の上で選んできたとしても、やっぱり、その後にあかちゃんが向き合うこの社会については、必ずしも赤ちゃんが選べるわけではない。そして、生きていくことは、決して優しくはない。

 

 

児童養護施設の取材をしていたとき、わたしには、わたしと、彼ら彼女らの違いが、本当に、痛かった。

日本人。女の子。おいしいものがすき。あまえんぼう。ちょっとわがまま。

同じ。なのに。

 

夏のあいだ、ずっと公園で寝泊まりしていたところを保護された小学生の女の子。

両親がずっと帰ってこないまま放置されていた赤ちゃんのとき、同じく空腹に苛まれた飼い犬に足の親指を食べられてしまった女の子。

3つもの里親をたらいまわしにされて、引き取り手のみつからなかった女の子。

 

同じ時代を生きていても、同じ時に生まれても、日本のなかでさえも、違う。その現実に対して、私は何を言えるだろう。何が出来るだろう。

 

 

 

 

今日は、74年前に、日本に生きていたひとたちを思う日だ。

夏の日。

きょう、きのう、おととい、一週間前、一ヶ月前、、、その延長線上に、1945年8月6日がある。時間も、世界も、一瞬だって止まったりなくなったりすることなく、ずっと絶え間なくたゆまず、つながってきた。

でも、その日、広島のその場所にいた人たちには、世界が一瞬止まっただろうと、たとえ出来ることが想像でしかなくても、私は想像する。

そしてその後、再び動き始めた時間は、残酷なものでしかなかっただろう。どんどん“きれい”になっていく現代社会では、いのちが失われる場面に触れることが本当に少なくなっている。でも、私は想像しようと試みる。楽しいことではなくても、つらいことでも。

私が、74年前にその場所にいたかも知れないのだから。

もしかしたらこの一瞬のすぐあとに、同じことが起きるかも知れないのだから。

 

日本ではいま、8月6日午前2時近くだ。