森の日記

見たこと、知ったこと、感じたこと。

留学後3

就職活動って、独特な時間だ。

 

入試とか期末試験とか、一斉に同じ日・時期に受け、結果が、合否・偏差値・数値ではっきり示されるものとは違う。

何百万・何千万もの異なる選択肢から、”自分の生き方” をすくい取らないといけない。

しかも、その選択肢はどれも、人生のステップでこれまでで経験したことのないものんなのだ。

 

会社勤め、大企業、ベンチャー、フリーター、起業、進学…。

 

イメージなんか、つくわけがない。

なのに、同じ春を、てんでばらばらに、就職先を探すという活動で右往左往することになる。誰かを意識するとつらいし、誰と比較していいかもわからないし、かといって、ひとりではとてつもなく孤独だ。

 

フランスでは、大学に入った時点で(本当はその前から)どんどん自分の専門性を狭めて深めていくので、就職活動も、基本的にはもうその時点で、目前には具体的な選択肢しか残されない。

例えばジャーナリストなら大学ですでにジャーナリズムを、銀行で働くなら金融を、商社ならビジネスを、学んでいなきゃ、会社にアプローチすることさえかなわないのだ。

そのうえで、ひとりひとりのキャリアはインターンシップから始まる。日本のインターンみたいな「数日間の見学スタイル」ではなく、半年もしくは1年程度の、がっちり仕事(でも給料は安いし福利厚生はない)。インターンという名のお試し期間をとおし、若者は人脈(コネ)を築き上げ、空いたポストにうまくアプライして、パスして、就職…という手順をうまく実現させることを求められる。

 

日本も少しずつこれまでの終身雇用制度の崩壊とともに就職のかたちも多様化しているが、客観的に見たらまだまだ保守的で、それは一方で、安定していたともいえる。

 

 

日本スタイル、もしくは欧米スタイル。

 

どっちがいいとも言い難い。

 

日本では、専門性がなくても無限の選択肢が与えられ、入社したあと、”イチから“ 会社で専門性を培える。

 

一方で、フランスの専門性を自ら培ってから就職していくスタイルは、自身の将来をより具体的に描けるし、何より、”新人” であってもそのひとのプロ意識が違う。

 

◆〇◆

ただ、私は少なくとも日本にいたし、日本人。

ずっと日本にいる、ずっとひとつの会社にいる、という思いがもともと全くなかったので、普通の就活生のマインドとはちょっと違ったと思うけど、それでもそれなりに手探りで自分の ”社会人としての一歩” を、周囲の仲間たちとともに模索した。

 

 その結果。

私はRと同じ会社に入ることになった。

それは、偶然ともいえるし、もしかしたら必然だったのかもしれない。Rがこの企業を志望していたことは知っていたし、私はある種、Rをとおしてこの会社のことを知ったから。

 

Sは、ひとつの業種にしぼって挑戦し、最後の一社(でもその業界では最大手)に決まった。

それぞれの道のりは紆余曲折あったが、それぞれ、”納得したうえで” 社会人としての一歩を踏み出すこととなった。

 

〇◆〇

あとはもう、学生生活を再び謳歌するだけだ。

卒業論文や卒業旅行、春休み、バイト、送別会。

東日本大震災直後に予定されていた大学の卒業式はかたちを変えて「青空卒業式」となったけれど、それでも、私たちは、その当時できる最大限のモラトリアムを謳歌した。

 

Sとは、旅行したり、遠出したり。

Rや友達と、たくさん遊んだり。

 

なんの問題もなかった。

東日本大震災が起き、それでも、私たちの日々は、幸いなことに少しの影響のみで、続いていった。

 

そして、私は、東北へ行くことになった。

 

それでも、RもSも、変わらぬ関係が続いていくと思っていたし、じっさい、離れても、続いていた。

留学後2

留学から卒業にかけて、「大学生」という、人生の中でもある意味とても特別な時間を ”謳歌” したのだと、振り返ると思う。

 

合コンとか、飲み会とか、女子会とか、そういう、きらきらした「イマドキの学生」ならではのイベントとは縁がなかったけれど。

 

部活や、遊び、学び、青臭い議論、酔っ払い、夜中のドライブ・・・

 

高校生や中学生とも違う。社会的責任は負っていないけれど社会にはある程度参加でき、社会の仕組みについてもある程度理解しながら、そのくせ社会人とは比にならないほどの自由がある。

 

大学生って、「モラトリアム」だ。

 

東京の片隅にある大学で、私たちは、”学生にしかできない” 、ある種の青春、ある種のかけがえのない時間を過ごした。

 

世界のことを考えて悩んで悩んで悩み尽くしたり、

ばかみたいなことでふざけて夜更かししたり、

徹夜するほど話し合ったり、

些細なことで泣いたり。

 

そして、そんな私の思い出のほとんどにおいて、RとSは”登場人物”だった。

村人Aではなくて、名前のある、登場人物。

 

同性の友だちであるRがそうであるのは不思議ではないにしても、そもそも恋愛体質ではなく、むしろ反対のタイプの私自身にとって、Sを、それほど私の友人たちにオープンにできたのはなぜなのか。

今でもちょっとわからない。たぶん、Sがとてもオープンで、迷いのないひとだったからだ。

 

◇□◇

Sは常に私への愛情を表現してくれたし、それを友人たちにも恥ずかしげなく表明するひとだった。彼自身が、そういう ”愛情深い自分であること" を好む種のひとだった。

 

でも、そんな彼だからこそ私は、安心もできたし、「好きな人に好いてもらえる幸せ」を教えてもらえたとも言える。だから当時の私にとって、そういう彼の性格は好もしいものだった。

 

◆ 

ただ。

彼が「結婚」ということばを持ち出すたび、自分の心の中にある、とても乾いた部分を突き付けられた。

 

「いつ結婚しようか?」

「子どもは何人ほしい?」

「子どもの名前は何がいい?おれは・・・」

 

たぶん、誰に言ってもちゃんと理解してもらえないと思うのだけれど、当時の私は、心底彼のことを好きだったけれど、結婚するひとは彼じゃない、と思っていた。

 

 

現在の夫にも出会っていないし、何の根拠も理由もないのに。

 

好きな人が見つからなくて苦労した末に出会った、大好きな人だったのに。

 

どんなに細かく思い直しても、当時、両思いだった私たちの間で、私が不満に感じていたことは何一つなかったのだ、本当に。

連絡もマメだし、かといってしつこくもないし、誠実だし、かといって押しつけがましくもないし、遠いところにドライブで連れて行ってくれるし、手紙も書いてくれるようなロマンチックなところもあったし、私にないものを持っていて、私の知らない世界を見せてくれるし。

 

予感というのは、たぶん直感というか本能的なものだったのだろうと思う。

自分の留学先が、思わず、しかし結局は自分の本心に近いかたちで変更されていたときと同じで(そのときも実は、結果を見たときに心のどこかで「…やっぱり。」と思ったのだ、私は。)気づいていたのかもしれない。

心のどこかで。

 

彼に、具体的な未来の話を振られた時には「ふふふ」と笑ってごまかした。 

「いやいや」という否定も、

「そうだね」という肯定も、

どちらもしないことだけを、言われるたびに意識していた。

 

本当にひどいと思うけれど、心のどこかで感じていたのだ。

こんなにもいまは好きだけれど、絶対に ”一生ずっとは一緒にいない” って。

 

当時の私は、(ことばにしたらとても残酷だけれど)真剣に、「彼はもしかしたら、亡くなってしまうのではないか」とさえ思っていた。

 

もちろん当時は、暇さえあれば彼に会いたいし声を聴きたい、そんな時期だ。

 

だから、そういう縁起でもないことを冷静に考えてしまう自分と、その想像が現実になったらどうしようという不安と、一方で揺らがない「ずっとは一緒にいない」という感覚を、どう自分のなかで落ち着けたらいいのか、わからずにいた。

 

当時も思っていたし、いま書いていても思うけど、本当、いやなやつだと我ながら思う。そのことだけは、本人にはもちろん、友人含め誰にも打ち明けたことはない。

 

◆■◆ 

 

ただ、結局は、当時の自分の直感が、あっていたのだと、今となっては思う。のだけれど。

留学後

そして、帰国しまして。

 

学校が6月に終わると次々に周囲の友人たちが帰国する中、わたしは大学の長い夏休みも謳歌すべく、そしてせっかくの留学という海外の時間を活用すべく、学生ビザの許すぎりぎりまで残る口実を探した。

 

結果、戻ったのは。8月末。

 

9月あたまに、自力じゃなかなか行けない外国に一緒に行かないかと誘ってもらったため、その旅行に間に合うように帰ったのだ。

 

異国・フランスでの、一年間。

 

先進国だし、派遣留学だし、学校だってちゃんとしているところだし、住まいだって安心のエリアで好条件の場所を苦もせず見つけた。

それは、すごく恵まれた一年間に過ぎなかった。

でも、幼い頃から日本から外の世界へ飛び出たくてたまらず、高校卒業と共に海外に出たいという希望を(派遣なら良いけど4年も海外は無理、と止められ)曲がりなりに諦めた自分が、家族の納得を得られるかたちで勝ち取った時間だった。

 

結果として事件や事故に巻き込まれることなく帰ってくることが出来たけれど、異国は異国であり、傷つく経験もたくさんした。

個人的に、生まれ育った国・地域でずっと生き続けることだってサバイバルだと思っている。

 

そんな中で、異文化にどっぷり浸かり悪あがきを続けた一年間。その中で得られたものは、単なる派遣留学の単位や友だちとの思い出だけではなく、自分の根幹に関わるアイデンティティを築き上げるかけがえのない根っこになった。

 

 

何よりも大きかったのは、自分を認められるようになったこと。

自分は自分で良いんだと、ありのままの自分らしさこそがその人の魅力なんだと、腹の底から納得できたこと。

たぶんひとって、自分をちゃんと好きになれて初めて、ひとのことを好きになれるんだ、って、留学の終わりにふと思ったのだ。

 

それまで、誰かが褒められているとそれが跳ね返って自分の欠点を言われているように勝手に脳内変換をしてしまうほどのネガティブな人間だった(いま思うとなぜだか全く分からないけど・・・)。まさに ”空っぽのティッシュ箱” のように、ちょっとの衝撃で凹んでしまうようなメンタルだったのが、なんだか、自分の中に曲がりなりにも ”芯” が出来たというか。

 

◆▽◆

元恋人のSに出会ったのは、そんな矢先だった。

 

だからだったのかもしれない。相手のことを「好きだ」と思えたのも、それをちゃんと"デートに誘う"という素直な行動として表せたのも。

 

「好きだ」と思った相手に好きになってもらえるってやっぱりとっても嬉しいことで。

 

留学から帰ってきて、世界が1年前と打って変わって色づいて見えるようになっていた私は、人生初めて、ようやく恋愛というものを知った。

それはさらに世界がきらきらして見えるもので。

 

大好きな友だちもいて、大好きな恋人もいて、大学の授業は日本語で、言いたいことも知りたいことも、いとも簡単に分かるし伝えられる。そのありがたみたるや・・・!

 

毎日が楽しかった。

 

Sとはいろんな思い出が出来たけど、一番楽しかったこのときの思い出は、なんてことのない風景だ。公園をさんぽしたり、ごろごろしたり、キャンパスの隅っこで授業をさぼったり、夜中に何時間もドライブしたり。

 

その傍らでRを始めとする友人たちとも集まって、たくさん遊んだ。

 

それだけでなく、Sが、私の友だちにも彼自身の友だちにも素直に惚気てくれることが、嬉しかった。

 

"〇〇の彼女"。自分が、そんな立場で認識されるような日がくるとは、留学前の根暗な自分はまったく想像も出来なかった。

 

あるとき、当時、留学時代のフランス人のボーイフレンドと遠距離恋愛を続けていたRに、

「オレンジデイズみたいだね。いいなあ。」

と言われたことを、そもそもオレンジデイズというドラマを知らなかったのだけど、なぜかそのことばを、やけにはっきりと覚えている。

なんで印象に残っているのかは分からないけど。前後の文脈も覚えていない。

でも、嫌みだったり、嫉妬だったりとかじゃなくて、屈託のない笑顔で言われたことは確かだ。Rはそういうときに、人を妬んだりするような子ではないから。それはいまでもそう思うから。

 

あと、同じ頃、ひとり暮らしのRの家に夕ご飯をごちそうにお邪魔したとき、フランス人のボーイフレンドからSkypeがかかってきたことがあった。

そのときのRの話し方がとっっっても優しくて、いたわりと愛情にあふれていて、

「わあ、素敵だなあ。」

と思ったことも、はっきりと覚えている。そんな優しくてかわいらしい話し方を自分がSに対してできているとはとても思えなかったし、そういう話し方がとてもRに似合っていたから。

留学2

きのう書いたやつ、間違って消しちゃった。。。しまった。

いつも徒然なるままに書いていて、何書いたか覚えていないけど。。

 

毎日更新すると、アクセス数が増えてきて、ふと不安になった。相手に気づかれたらどうしよう、って。何がいけないわけでもないのだけれども。

 

かといって、今の自分では、紙に書く気力もなく。あと、書いていて思うけど、言語化するのって、確かに、とっても思考整理によい。こんがらがっていた鎖をほどいていくような。自分のみ公開にしようかと思ったけど、まあ、いいか、と思い直した。

 

◇■◇

初めての留学は、苦しくて楽しかった。

できないことが次から次へと差し迫り、思うようにフランス人たちと仲良くなれるわけもなく、言語がわからないだけで自分が「無(nul)」であるかのように感じるのだ。

 

私たちがひとことで「世界」呼ぶ、この社会。

でも、土地が違えば文化が違う。文化が違えば価値観も人付き合いも違う。

もちろん、突き詰めたら、喜怒哀楽とか、思いやりとか共感とか、同じ人間としてのシンプルな感情があるし、私はその”人間として”のシンプルな感情がいちばん尊いと思うのだけれど、それ以前にやっぱり、細かなニュアンスが伝えきれないというフラストレーションはとてつもなく大きい。ボディランゲージっていったって、結局のところ限界があるのだ。

世界の広さと深さを知った。

 

「きょうの朝、学校に来る途中に道路の脇でいつもギターを弾いているSDF(Sans domicile fixe = ホームレス)の若者のとなりに通勤途中のビジネスマンが座って語りこんでいたの。昨日は、買い物にスーパーへ行ったらレジ並んでいるときものすごいきついにおいがして、振り向いたらSDFのおじさんが買い物に来ていたの。日本だとホームレスの人ってものすごく肩身の狭い思いをしていて、街の見えないところに押しやられている気がしていたの。でも、本当は誰でも生きていていいし、買い物していいし、話していいんだよね。なんだかそんなことを感じて、私はとっても嬉しかった!」

 

って、言いたくても言えない。言いたいけど言い方がわからない。

日々、目にうつる新たな情報からの刺激は膨大で、わくわくすることやどきどきすることもたっくさんあるのに、それを近くにいる人と共有することができない、フラストレーションたるや。

議論できるって、すごいありがたいことなんだな…といまさら思い知っていた。

 

◆◇◆

でもだからこそ、そういうときに、同じような感じ方・考え方を共有している友だちと日本語で議論できることが、とても尊いのだ。

派遣先には日本のほかの大学から来ていた留学仲間とも出会うことができて、それもとっても貴重で尊い出会いではあったけれど、同じ大学から来た友だちは、同じ講義や同じ文化を享受しているからか、より話し合えることが深いのかもしれない。だから、Rたちと会って話すこと、自分にとってとても楽しかったのだ。

私の根がたぶん真面目かつ不器用で、ノリで盛り上がる、ということができないタイプの人間であるのだけど、そんな自分のペースを分かってもらっている安心感もあったのだと思う。

 

Rとは、その後も時々けんかをした。

いちど、オペラ駅構内の、それぞれのメトロを乗る直前に議論になって、行きかう人たちを見やりながら立ち話しながら議論したこともあった。

 

なぜぶつかってしまうのか。

 

「なんだか、熟年夫婦みたいな感じなのかもね」

そんな話もしたことを覚えている。

「お互い、『相手がわかってくれるに決まっている』って思っちゃって、でも実はそんなことなくて、本当はちゃんと伝えなきゃいけないんだよね」

って。

 

似たもの同士だけど、やっぱり全然似ていないところもあって、そんな中でも相手が気になっちゃうから、ぶつかっちゃう。

 

そう思うと、いまの結果は、起きるべくして起きたことなのかもしれない。

 

◆〇◆

留学中、Rも私も、ボーイフレンドができた。

フランスでは、恋人のことをMon petit ami/petite amieと呼ぶ。直訳したら、「私の小さな友だち」。「私の」という所有格がつくのは、恋人のみ。単なる友だちは、ami(e) à moi(私に所属する友だち、とでも訳せるか)。そういう表現ひとつとっても、フランスがいかに、恋愛に重きを置いているかを感じる。

でもとにかく、私たちにはそれぞれボーイフレンドができた。

正確には、最初にRが、チューターをしてもらってたフランス人3人組のなかの一人と良い感じになって付き合うことになった。

そんななか、私のチューターをしてくれていたひとが、なんでだか私を最初からずっと好いていてくれて(私はそれを理解しつつもその気がなかったから確信犯的に知らんぷりしていたのだけど)、Rたちが熱心に勧めてくれて(?)、断り切れなくなり、付き合うことになった。

 

フランスではそもそも「告白」という文化があまりなくて、既成事実によって恋人同士としてみなされていくと聞いていた。でも、あまりにも私が煮え切らなかったから彼は告白してくれて、それもまた、返事を保留したのだけど、いつまでも先延ばしにできなくて。

今考えても、どう行動するのが正解だったのか、よくわからない。

 

相手に恋人がいなくて、私にも恋人がいないなら、試してみたらいいんじゃない?良いひとだと思うよ。彼。

 

というRのことばが、後押しになったのは、事実。

でも、結局のところ、たしかに良いひとではあるけれど、私自身が彼に恋はしていなかったから、無理があった。私には無理があった。なんとなく誰でも好きになれるタイプではないことは、前々から自覚していたのに。

 

けっきょく、やっぱり男性としては好きになれないから、友だちに戻ろう、と私が意を決して告げたことでこの関係は終わるのだけれど(意を決したにしろ、なんてひどい…といまなら思うが。。)、3か月ほど付き合っている間、Rたちカップルと一緒にダブルデートに行ったりもした。

そして、私たちが別れたあともRはフランス人のボーイフレンドとの関係が続いた。ボーイフレンド側から相談されたりもしたけど、ふたりは総じて平和に付き合っていて、それは、留学が終わって私たちが帰国したあとも続いた。

留学

その年の秋からの留学中の住まいも見つかり、あとは単純に派遣手続きとビザの手配をしながら、勉強をする日々が続き、そして、秋に。

 

初めて ”暮らす” ことになった、外国、フランス。

 

旅することと暮らすことの最も大きな違いは、目に映る風景の色づき方だ。

旅で滞在するとき、目に映るものはすべてどこか新鮮だ。建物、街角の看板、道行く人、空の色、天気の移り変わり。お店の看板や駅の案内標識ひとつとっても、すべてがその地の風習に根付いた上に築かれたものなわけで、それは異なる風習の中で育ったものにとって、”当たり前ではない”。引っ越したときも同じ。最初に感じる新鮮さは、とてもビビッドな色合いとして目に映る。私にとって、新たな場所に行くことの面白さの半分は結構そこにある。(残り半分は、その地で出会う”ひと”だ。)

 

それが、

毎日過ごすようになっていくと、だんだん”当たり前”になっていく。

スーパーの商品の並び、きっぷの買い方、いつも立ち寄る店。

 

慣れていくと、だんだん風景はまろやかになっていく。

 

でも、それが悪いわけでもなくて、まろやかな色合いで見えるようになると、今度はさらにもうひと段階深い”差異”に気づけるようになっていくから面白い。

たとえば、このスーパーに来るのはおしゃれなマダムとかちょっとステイタスの高いひとだな、とか。たとえば、この道路にはいつも朝の通勤ラッシュにヒッピーの若者がいて、音楽を奏でているな、とか。

 

毎日、小さな発見や気づきがあり、気づくと日常が美しく楽しく見えてくる。

 

その”気づき”の面白さを最初に私に教えてくれたのは、アパルトマンを貸してくれたフランス人の留学生Iだった。いっしょに散歩をしながら、小さな変化に気づく楽しさを教えてくれた。

街角の生け垣の花が咲いた。看板の文章がちょっと変。あそこに歩いている人の服装が素敵…。散歩の好きなフランス人らしさでもあるけど、彼と留学前にたくさん時間を過ごしたことは、私にとって今も、その後の人生を豊かにするヒントになっている。

 

◇▼◇

パリで、見るものすべてがビビッドで面白かった最初の日々を、私はRといっしょにすごした。彼女はパリでの住まいを見つけられていなかったから、家が見つかるまでのあいだ、私のアパルトマンに一緒に生活していたのだ。

 

学校に行き、フランス語がほとんどわからぬまま呆然と一日を過ごし、出された課題を抱えへろへろで帰宅。慣れない近所のスーパーで手探りで材料を買い、夕ご飯を作る。

牛乳で作るホワイトソースのシチューやクリームパスタ、ラルドン(パンチェッタみたいな塩漬け豚)を使った炒め物、簡単なスープ。そして、5ユーロくらいで買った赤・白・ロゼワイン。当時まだ日本ではロゼワインはそこまで一般的ではいなかったし、ワインを学生同士のごはんで飲むような文化もなかった私たちにとって、「夕食のおともにワイン」というただそれだけで、なんだか自分がおしゃれになったような気がしたのだ。浮かれて、よく飲んだ。ふたりで酔っ払ってワインを買い足しに出かけたり、酔っ払った自分たちを見て笑いあったりした。時には好きな音楽をYoutubeで流しては、自分たちの恋愛観について語り合ったりもした。

 

エリート学校は本当に想像以上にエリートだらけで、自分のフランス語のレベルは想像以上に絶望的に低くて。毎日毎日、劣等感と乗り越えられない壁の連続ではあったけど、そんな中でRとの暮らしはささやかな ”希望" だった。

 

そして約一か月後、Rは住まいを見つけ、同じ交換留学生の友だちFとシェアして住むこととなって出ていった。

大学での友だちも少しずつできていったけど、そのあとも、私たちはお互いの家でフェット(パーティー)した。終電のメトロを逃して、始発のメトロで帰ったなんて、しょっちゅう。

言語の壁があり、エリート意識の高いフランス人たちとなかなか仲良くなれない中、同じ大学から来た、同じ課題に直面しているRたちとの時間は、貴重な息抜きだった。

 

ある日、RとFが、Fの大学の日本語を学ぶフランス人たちとチューターを組むと聞く。

「わあ、いいな!」

と言った私に、相手のチューターのひとたちも仲良し3人組だから、ペアを組む相手のいなかった3人目のひとと私がチューターを組んだら、とふたりからの提案。

けっきょく3対3でペアを組むことになった。

チューターの彼らと私たち。

フェットやピクニックや楽しいことをたくさん一緒にした。チューター相手になったPとは週に1回会って、課題を手伝ってもらったり会話の練習をしたり。

Rと彼らにとても支えてもらったのだった。学術的にも、精神的にも。

 

留学前2

留学に一緒に行けることが、とても嬉しかった。つかず離れずでけんかしたりもあったけど、Rと出会えたおかげで大学生活も楽しかった。

 

留学行く前にひとつ、印象に残っていることがある。

当時、私は入学してから仲良くなった友人が精神を弱めてしまって大学に来られなくなり、精神科にかかっていることに心を痛めてた。

友人は、わたしとだけ連絡を保ってくれていたのだけれど(似ているところを感じる、と言ってくれていた)、当時のわたしは、なんでもすぐに自分を卑下する方に物事を解釈する傾向があって、彼女が来られなくなったことについても、その彼女のつらさを理解出来ない自分、支え切れていなかった不能さについて自分を責めてしまっていた。

人のマイナスな感情をそのまま受け止めてしまう性格だったのだと思う。

 

だんだん元気がなくなり、かつ電車の中での痴漢被害や、なんてことのないほかのクラスメイトの愚痴にまでもダメージを受けるようになり、なんだか参ってしまった。

ごはんも食べられなくなり、電車に乗るのも嫌になり、毎日何時間も夜の町を歩くようになった(とはいえ夜の町と言っても新宿とかの危険なところではなく、家にまっすぐ帰れなくて、神保町とか東京駅近辺とか、 "普通の" 夜のまちだ)。

 

そんな中ある夜、Rとふたりで晩ご飯を食べた。大学近くのレストラン。たしか、シンガポールチキンライスのお店。

 

そこで、自分が苦しいと感じていることを、人の感情をもろに受けてダメージを負ってしまう性分であることを、正直に話したとき。

Rは、解決策を一緒に考えてくれながら、自分の考え方を教えてくれた。

 

「私、小さい頃から、親にも周りの人にも褒められて育ったの。外見もそうだし、幼い頃からの習い事でも、たとえばバレエをやっても他の人より上手だったし、学校の成績も優秀だったし。いつも、『かわいいね』『すごいね』って言われて育った。だから、自己肯定感が強いみたい。」

 

その年頃の女の子って、だいたい"謙遜"がデフォルトだ。まあその年頃でなくても、どれほど美しくても、優秀でも、人はたいてい、周囲のひとに褒められたら、「いやいやそんなことなくて・・・」と言うことが多いと思う。

 

それが当たり前の社会で、

「自分がかわいい」「自分は優れている」と言われてきたこと。

それを自覚・自認していること。

 

他者に悪びれることもなくまっすぐ言う人に出会ったのは、わたしにとってRが初めてだった。

衝撃だった。

 

でも。

その屈託なさが、わたしは好きだと思った。いいな、と思った。

自分には絶対に言えないことだったから。

 

「だからなのか、私、たとえば誰かが悩んでいたとしても、そこに完全に自己投影できないの。どこかで『自分は別』って常に一線を引いている。M(わたしのこと)は、優しいんだね。だから、自分は別だと思わずに、相手のことを100%理解しようとして、出来ないと自己否定しちゃうんだね。」

 

このときまでわたしは、「自分は別」と割り切ることが出来るひとがこの世にいるのだ、ということも、知らなかったのだ。

 

考えたら当たり前っちゃ当たり前だ。

友だちが失恋して、泣きながら「ねえ、聞いてよ!」と経験した悲しみを語るとき。

相手に、「へえ~。それは悲しかったね。でも、私にはそんなこと起きない」なんて言うことは女同士の友情ではあまりないと思う。

「ひどいねー!許せない!」とか怒って、「〇〇にはもっと良い人がいるよ!」って、一緒に悲しんだり怒ったりする。

 

でも、ものすごく突き詰めてドライに考えたら、どんなに周囲が共感してくれても、しょせんふられたのは当事者以外誰でもなく、その当事者が乗り越えなきゃダメなわけだ。入試に落ちた悲しみ、大切な人を失った悲しみ。

本人が乗り越えるしか、前に進む手立てはない。

 

当たり前なのかもしれないけど、20やそこらだったわたしにとって、この事実は目からうろこだった。

そして、「自分は別」と公言できる彼女に対して、反感というよりかは敬服の念を抱いた。そういう、いわゆる "聞こえの悪いこと" を言ってくれる彼女への信頼感は増した。

 

「元気でないときは何よりも白米を食べないとダメ!」

と励ましてくれた彼女。

必ずしも相手の感情をすべて受け止めなくても良いのだと知ったわたしは、落ち込むことがあると意識的に「食べよう!」と思えるようになった。

大学に来られなくなった友人がその後、戻ってくることはなかったけれど、私自身は少しずつ元気になっていった。

 

この夜のごはんは、わたしにとって、彼女がさらに大きな存在になったきっかけだったんだと思う。Rが覚えているかは分からないけど。

 

■◇■

派遣留学に行けることになった私たちは、語学の勉強も兼ねて、自分たちの大学に留学に来た生徒たちのチューターに応募することにした。フランス語圏から日本に留学に来る学生の生活面や課題面でのサポートをし、その代わりに自分たちは彼らの母国の文化を教えてもらえる、という相互援助の関係だ。

その年、私たちの大学に留学に来たのは3人。

教授から、チューターの募集の呼びかけがあって、何人が応募したのかはもはや分からないのだけど、

 

結果として、

パリから来た20代の男の子A(日本語習得が目的・彼女が日本人)を、

クラスメイトの男子学生のひとりが担当することになった。

 

パリから来た30代ですでに日本語の流ちょうな男性I(修士・日本芸術が好き)を、

Rが担当することに。

 

そして、

ジュネーブから来た30代の男性U(修士・日本文学/映画が大好き)を、

わたしがチュータとしてサポートすることになった。

 

わたしのチューター相手でジュネーブから来たUは、日本の映画が大好き。

古めの日本映画とか日本文学から日本語を学んでいるから不思議な言い回しや古風な単語をよく知っていて、ブラックユーモアが好きな面白い人だった。年はだいぶ上だけど、すぐに仲良くなった。

 

授業の合間に彼の課題の日本語作文を添削したり、反対に自分の派遣留学書類の準備を手伝ってもらったり。

 

同時期に来たほかのふたりの留学生やR,男子学生らもともに、学食でおしゃべりをしたり、のみに出かけたり。

わたしの人生で初めて、フランス語圏で出来た"友だち”と言えるコミュニティ。

新鮮で楽しかった。

 

そんな中で・・・

なんでだか、次第にRのチューター相手のIと、ふたりで遊ぶことが多くなっていった。きっかけをちゃんと覚えてないけれど、Iのほうからメールが来るようになって、ふたりでやりとりすることが自然と増えていった。

Iには当時、パリに残してきたとてつもなくかわいいパリジェンヌのガールフレンドがいて、彼女も我々のコミュニティではよく知られた存在(かつあこがれの人気者!)だったので、特に警戒心を持たなかったことも大きかった。

 

地元・横浜を案内しながら1日中ふたりで散歩したり、美術館に行ったり。

いま思えば明らかに「デート」だと思うけど、無邪気にどんどん、ふたりっきりで過ごすことが増えていた。

 

あれ、チューター制度は?

 

って思うけど、当時はそんなの、まったく考えていなかった。

男性が苦手だったわたしは、ちょうどガールフレンドがいるということで変に意識することもなく、でも年上で物知りな彼との会話は楽しくて、自然と毎週末のように出かけるようになっていった。

 

そのとき、もともとチューターだったRはどんなことを考えていたのだろう。まったく気にしていなかったのかもしれないし、自分が担当のチューター相手がわたしと仲良くなって複雑だったのかもしれない。

 

それも結局聞いたことがない。

 

派遣留学が近づいてきたころ、このフランス人留学生Iは、もう1年、日本滞在を延長することになった。そして、パリにいて彼の帰りを待っていたガールフレンドはしびれを切らし、彼を追いかけて日本に来ることになった。

その矢先。Iは、パリでガールフレンドとともに暮らしていたアパルトマンを、わたしに1年貸すことを提案してくれた。

留学先の住居なんてまったく考えていなかったわたしは、特に何も考えずにその話に飛びついた。

正直なところ、寮やホームステイへの憧れがずっとあったのだけれど、Iの住まいを借りられるなんてとても光栄なことだし、こころのどこかで、Rではなくわたしに提案してくれたことへのうれしさもどこかにあった。

小さな優越感だったのかもしれない。

 

かくして、わたしは、IとIのガールフレンドの愛の巣でもあるパリのストゥディオに、留学初日から入居できることになった。

 

それは、とっても幸運なことだったと後から感じることになった。

そして、そのアパルトマンは、1年間の私たちのフランス留学において、とっても大事な場所になった。

 

留学前

青春時代の女同士の友情って、ちょっと恋愛に似ている気がする。

 

自分の好きな友だちがほかの子と仲良く話していて嫉妬したり、仲良しの証拠でおそろいのものを持とうとしたり、プリクラをとったり、一緒に帰ったり。

 

小学生のころからあんまり日本の女子グループになじめず、誰かとずっと一緒にいるより広く浅くの人間関係を保ち、心の中では一匹狼のつもりで生きてきたわたしにとって、Rは特別だった。

自分に似ている部分と、自分が欲しい(けど絶対に手に入れられない)部分、どちらも持っていたからだと思う。

 

似ているのは、世界へのまなざし。考えることが好きなところ。本や芸術、自然が好きなところ。ファッションなどの好み。根が真面目なところ。

憧れていたのは、外見の美しさ。傍若無人に振る舞えるところ。表現するのが得意なところ。

 

どこか常にまわりの視線を気にしてしまう自分に対し、人前でも堂々と発言したり踊ったり歌ったりが出来る彼女。

 

似ているけど全然違うけど、でもやっぱり似ている。そんな風に見えた。

 

だから、仲良しの4人組でいても、その存在は圧倒的に、他の2人とは違っていた。ある種、恋していたんだと思う。LGBTQとかそういうのじゃなくて。

 

一番の親友でいたい、という、独占欲のような。

 

Rがわたしのことをどう見ていたのかは分からない。

でもたぶん、お互いにちょっと、特別だったんだと思う。けんかしたし、けんかにならないまでも何度も衝突したし、それでも一緒にいた。

 

大学の成績レベルも近かったから、ライバルのような存在でもあった。

 

留学に挑戦するかどうかを考えていた大学2年生の夏休み。

わたしは、「本当に行きたいのか」を自分自身で見極めようと、1か月の海外ボランティアに出かけた。フランスの田舎で、世界各国から集まってきた若者たちと共同生活をしてボランティアする生活。

同じ頃、Rは、フランスの田舎に1か月のホームステイに行っていた。

他の友人たちも友人たちなりに、旅行やツアー、語学学校などでフランスに行っていたけれど、人とちょっと違う方法で、長めに滞在する、というところで、わたしたちふたりは共通していた。

そして、そういう、"人と違う自分"というところに、お互いちょっと、アイデンティティを見いだしていたところもあったと、思う。

 

 

秋には、翌年の派遣留学に向けた選抜が控えていた。 

 

夏休みを終えて。

わたしも、そしてRも、ともに、派遣留学に挑戦することを決めた。

 

大学の派遣枠はそんなに広くなく、倍率も例年より高い中で、同じ大学を志望した私たち。

文学や芸術を学びたいと言っていた彼女の選択は、純粋なものだったと思う。

一方でわたしの選択は、本当はもう一段階難しい派遣先に志望するのに気が引けたという、ちょっとネガティブな理由。なぜかというと、難しい派遣先は、フランスでもエリート校として知られていて、これまでも派遣されている子たちは、たいてい帰国子女だったり、大学前からフランス語を学んでいたりと、基礎レベルの高い人たちだったから。学べる分野としてはその学校に惹かれていたけど、決して語学について優等生ではなかった私は、ひよって、文学や芸術を学べる普通の大学に志願したのだった。

 

ここでも、同志でありながらもライバルだった。

 

■◇■

試験を受けて、数週間後。

 

結果は、大学の掲示板に貼り出された。

 

わたしが見に行く以前に、「合格した!」とわたしの携帯にメールをくれたR。

自分はどうなんだろう。でも、Rが受かったって言うことは、落ちたのか・・・?

 

どきどきしながら、掲示板を見に行くと

わたしの番号は、自分が諦めていた、一段階難しいエリート校のところにあった。

 

拍子抜けした。

 

なぜ、教授たちがそういう判断をしたのかは、分からない。エリート校も倍率は3倍近かったし、加えてそちらは面接も他の学校とは違っていて、別枠だったから。

異例の結果だったと思う。

 

 

■◇■

でも。

結果として、少なからずのクラスメイトたちが派遣選抜から落ちた中で、Rとわたしは、一緒に、同じ時期に、フランスへ留学に行けることになった訳だ。

 

 

そして、行き先は同じパリ。

 

 

それはもう、テンションが上がってしまう。

留学に行ける、というだけでも嬉しいのに、自分にとって特別な友だちだったRも一緒。しかも、彼女も私も、結果として第一希望の派遣先。

 

やっぱり、私たちはちょっと違う。

 

こころのどこかで、そうやって、ふたりの友情を特別なものだと思いたい自分がいたのだと思う。