元恋人S
重ねてとなるが、書く勇気のあるうちに。もうひとつ、整理しなければならない存在、元恋人S。
私の人生において、たぶん「恋人(いわゆる彼氏)」は3人いる。
ひとりめは、
大学の先輩で、
なんていうか、人生経験です!というレベルの、
90%が彼の海外留学中に終わったという、
かたちだけのひと。
ふたりめは、
友人Rからの勧めと、彼からのアプローチに押し切られて、
好きなひとが別にいながらもつきあった、留学時代の短くて不器用でほろ苦い思い出。
さんにんめが、S。
留学を終えて日本の大学に復帰してすぐに出会い、すぐに恋に落ちた。
最初は反発しか覚えていなかったが、
巡り合わせで次第に自然に話すようになり、彼の誘いでふたりきりで出かけて、あっというまに、つきあうことになった。
それまでのふたりが、どちらも3か月で終わったのに対し、Sは、4年くらい。たぶん、私の人生にとっては初めて、恋人、と言えるひとだった。
■□◆□◆□■
後期から日本の大学にもどった私たち。
言葉のカベぶち当たる歯がゆい1年間を過ごしたあとの私は、知識欲に燃えていた。
やる気あるひとたちがとる系の課題の多い授業で、ワークショップのグループがなぜかふたつも一緒になったのがSだった。
最初、彼の目立ちたがりな部分が鼻につき、「ああ、こういうひと、きらいだ。」と思った。
同じグループになっても、異性としてまったく意識しなかったし、ああいうお調子者なタイプはきらいなんだと、周囲に言ってはばからなかった。
当時、留学時代につきあっていた人(私の元彼の親友)と関係を続けていた友人Rは、(もともと、親友同士カップルとして、2組4人として成立したのだった。我々は。)その恋人の女癖の悪さから、乗り換えられる(彼よりものめりこめる≓好きになれるひとを探していた。
そんななかで、Sのことを「ちょっと気になる」と言っていた。
そして私は「それなら紹介するよ!わたし、グループ一緒だし」と言った。
しかし、紹介する前に、恋人になったのは、私だった。
思いがけず、急に映画を誘われ、ちょうど見たかったのに行けずにいた私は、「行く!」と気軽に誘いに乗って(断じて言うが、その時点で下心は本当に一切なかった)映画を見に行った。
しかし、映画は上映最終日。しかも人気作品で、満席御礼。
ねらっていた作品を見ることが出来ず、似たような作品を見て、そのあと、夜ごはんを一緒に食べた。
そのときの、彼のあどけなさ(不器用さとも言う)と、視点に共感して、一気に惹かれてしまった。
友人Rに「紹介するよ!」と言ったくせに。
強く惹かれてしまったわたしは、その日に分かれた後、即座に、Sに"デート"の誘いを申し入れたのだった。
「今度、デートしない?」と。
わあ、ベタ・・・!
っていまなら思うけど、今も昔も、直球で誘うことを悪いことだとは私は思わない。
たぶん、人生で初めて、すなおに素敵だと思えて、すなおにもっと知りたいと思えたひとだったのだ。
好きなら好きって言えば良い。
そして、約束した一週間後の"デート"は、雨の日。Sの実家の車で横浜へドライブに行った。
ドライブして、
私の元バイト先のレストランでごはんを食べて、
元町の公園で夜の散歩をして、
キスをして。
つきあうことになった。
とんとん拍子だった。
好きだった。
すべてが順調だった。
見た目でも、大柄な私を覆い隠してくれるほどのさらに大きな彼。
ハンサムな顔立ちの彼は、恋人としても、うれしくなるような相手だった。
まもなくして、友人Rほか、友人たちに少しずつ明かしていった。
彼にとって、初めてと言えるほど好きになったのだと言い、私にとっても、初めて本気で好きになったひとだった。
大学で公認。友だちのあいだでも認められるカップル。
そんな状況に自分が陥るとは思わなかった。
だけどそれは、とってもしあわせだった。
それまで隠していた、いろいろなコンプレックスが少しずつ、バターのように溶け出た。全部Sは受け止めてくれた。何も言わず、泣いているわたしのあたまをなでてくれた。
彼がいなかったら、わたしの大学後半は、どうなっていたのだろうか、と、思う。家のことでも、周囲のことでも、つらいことが続いていたから。
わたしに、だれかにとてつもなく愛してもらえる存在であるのだ、という実感をくれた。
彼と何度も散歩して帰った公園の芝生の緑、
彼とのキス、
彼の笑顔、
彼の自転車。
だれかに愛されて、自分もそのひとを好きで好きでたまらないことが、どれほど幸せなことなのかを知った。
両思いって、最強だ。
でも。
そんななかで、女癖の悪い恋人との関係を続けていた友人Rは、何を思っていたのだろう。
私が幸せの海におぼれていたとき、彼女は、どんな世界を見ていたんだろう。私を、どんな風に見ていたんだろう。
友人R
誰にでも忘れられない人生の一コマがある。そのコマの積み重ねが人生なのだと思う。
幼い頃に見た、情景。
小学校の日常のなかで起きた出来事。
遊んでいる中で友だちの言ったひとこと。
夕ご飯のにおい。
誰かとの出会い。
そういう情景が折り重なった結果が今の自分だし、そういう情景そのものが「思い出」だったりする。
■◇■
私にとって、友人Rとの出会いは、入学したてのころ。大学のキャンパスの二階のわたり廊下だ。
私の大学の作りは少し変わっていて、欧米風というか、吹き抜けの巨大な建物の中心に大きな通りがあって、両側にわたり廊下と教室が張り巡らされている作りだった。
その、2階のある教室をのぞきこんでいた数人の同級生たちのなかに、彼女がいた。
もしかしたら、もっと前に出会っていたのかもしれないし、ことばを交わしていたのかもしれない。
確認したことはない。
ただ、私にとって、忘れられない情景として浮かぶのは、どこかの教室を何人かとのぞきこんだ私の後ろに彼女がいて、振り向きざまに、ちょっと濃いめの青のギンガムチェックの洋服を着て、パーマのかかったながめの黒い髪の毛の彼女が、はきはきとした声で、何かを言った、その様子。
はきはきとした彼女の声に、「ああ、この子は、自分に自信があるんだろうな」と直感的に思ったことを覚えている。
そして、コンプレックスのかたまりだった私は、そういう、”自分に自信のある”タイプは苦手だ、とも最初、思った。
それがなぜ、あんなに仲良くなったんだろう。
気づけば、授業の前後も、休み時間も、いつも一緒にいた。
ほかに一緒にいたのは、どちらもこれまた私とは全く違う性格の持ち主、友人Mと、友人F。
Mは、彼女をイメージしてイラストを描いたら思わずぱっちりまつげを書きたくなるような、とってもかわいい、女性らしいタイプ。
Fは、アメリカンガールに憧れる、オーバーオールとか、くっきりした紫色でぴたっとからだのラインを浮きだたせるようなトップスを着ている、おしゃれなタイプ。
はきはきした声の、整ったかしこい顔立ちのR。
それに、自分がいていいのか分からないと不安な気持ち(でもそれは外には伝わってなかったみたいだけど・・・)と日々戦っていた、なんだか垢抜けない私。
お昼ご飯はたいていいつも一緒。
学食で、おかずを買ったりお弁当を作ったり、お菓子を作って持ってきたり。
そのまま、授業のないコマにお茶をしていることも多かったけど、そんなときもRは、「私、勉強してくる」とひとりで図書館に行けるひとだった。
「無駄に授業の出席率を下げたくない。評価を下げたくない」と、悪びれず言って授業に行くことの出来るひと。優等生。
まわりの空気をつい読んで、出てもいいなと思っている授業をサボったり、わざと「勉強したくない」と見せかけたり、小手際であわせようとするずるい私には、彼女のすがすがしい優等生ぶりがまぶしく見えた。
そんな彼女と、MとF。
4人組でわたしたちはいつも一緒にいたけど、そのなかでも彼女Rの存在は、私の中で常に大きかった。
きっと私にないものを持っていたからだと思う。
憧れと、嫉妬と。
成績や知能のレベルも、同じくらいだったのだと思う。
でも、明らかに、キャラクターと外見では、自分にコンプレックスがあった。
クラスの中でも、なんだか大きな声は出せない自分。大柄で、見た目もぱっとしない自分。
かたや、ほっといても、「美少女」とも言える外見の彼女。どんなときでもまわりに無頓着に「〇〇したい」と公言できる彼女。
そんな彼女の友だちであるということさえ、無意識に自分のアイデンティティにしていたのかもと、今となっては思う。
素敵な友だちが友だちである、という事実で、自分の価値も高めようとしている、という。とにかく、留学する前の私は、生きていることがつらくて仕方なかったから。
彼女との忘れられないいくつかの光景がある。
ここまで書いてみても、こんなちょっとしか書いていないのに、当時の私にとって、彼女の存在がいかに必要だったのか、どんなに大きな存在だったのかを、いま、改めて感じている。
こころを整理するために
日本に帰り、半年ほどが経ち、
2020年になり、
4ヶ月がたち、
震災から9年の節目を超え、
コロナウイルスが大きな騒動になり、
東京オリンピックが延期になりました。
あす、社会がどうなるか。国家がどうなるか。世界がどうなるか。
予測の出来ない、不安な時代に生きるわたしたち。
それでも、どんな”激動”の世界を生きているとしても、朝が来て、夜が来る。おなかが減って、ご飯を食べて、笑って、泣いて、怒って、悲しんで。人を好きになって、嫌いになって、けんかして、仲直りして、感情は巡る。
そんな時代に。
わたしは、3年前に起きた、社会から見たらほんのちっぽけな、ミトコンドリアかミドリムシレベルの出来事に、いまだ心を乱され続けている。自分の日常の平穏も保てないほどに。
さっき、10年以上の友だちに、自分のこころの膿が出きっていないことを気づかせてもらった。
遠く離れた外国に住んでいて、いまはふたりのこどものおかあさんとして頑張って日々を生きている、尊敬する昔からの友だちに。
その膿をつくるきっかけとなったのは、同じく10年以上の昔の友だちと、昔の恋人。
自分のこころに大きな傷を作った出来事にふたをし続けていても、その傷は、ほかの出来事や感情にまで膿をもたらすから、つらくても、何がいやだったのか、どんなことがあったのか、何を感じたのか、言語化した方が良いのではないか、と、友だちは控えめに、優しく、でも説得力のあることばで、私に言った。
最初、紙に書こうと思った。
でも、なんでだか、紙に、文字で残るのが耐えがたいと思った。
なので、ここに吐き出します。ほんとはもっと、建設的で知的でクリエイティブな日記にするはずの場所でしたが、今後どうなるかは分からないけど、半年ほど放置していた、この、宙ぶらりんのブログに、こころの澱を投じようと思います。
師走。
師走ですよ。
12月。
一年間をおおまかに均等に12のブロックに分けて、その最後の1ブロック。
西向くサムライ小の月。
って小さい頃ならって、そのまんま、
2月4月6月9月11月が、短いんだなあ・・・
っていまも思っているけれど、世界全国で(イスラムとか旧暦を用いる国は除いても、基本的には)
この、「ひとつきは30日もしくは31日。2月だけ28日ときどき29日」っていうルールあるの、
すごいなあって思う。
世界にも、こういう「西向くサムライ小の月」みたいな表現ってあるのかしら。
さて。。
そんなことよりなによりも、日本に帰ってきてからの時間の流れが早いこと早いこと・・・。
時間どろぼうに、時間ぬすまれっぱなし。
きょねんのパリでの1年間分くらいがもうすぎちゃった感じ。
とにかくぎゅうっと、濃い。仕事のせいもあるのだろうな。仕事のおかげ、なのか。
特に、1年間、難易もアウトプットしなかったので、出したくて出したくてたまらず、とにかく提案して番組化に向けてつっぱしっていたところはある。あと、修士論文と。
濃いのはとっても良いことなんだけど、やっぱり、きちんと生きていたいので、なんだかかんだか・・・。
のこりはなんと、30日と少しですよ。
計画的にすごそう。
やるべきこと。
小論文。
職場に出す報告書。
台湾。
宮城。
アフリカ。
あと、たくさんのひとたちとの思い出作り!
一歩一歩。着実に。。。
取材をする立場としての葛藤とつぶやき。
またご無沙汰していて、いますごく精神的に余裕がなくて、でもいまのところ待つしかなくて。
なので、最近、あるひとの一言でふっと久しぶりに感じた「もやっ」をここに吐き出しておこうかと思う。
(吐き出す、なんてことばを使っているのもたぶん、やっぱり心の余裕がないから。余裕がないと、とたんにじぶんの弱さが出てくるのですよね・・・)
□■□
先日、同業者のひとたちと、食事の機会があった。
そのひとたちを、私は仕事の面からもとても尊敬していて、ひととして大好きだ。
話の最後に、一緒に食事をしたひとのひとりに、東北について、聞かれた。
どうやら、取材をしたいと考えていて、私の知っているひとや場所を教えて欲しいと。
それはとてもうれしいことで、知っていることを思いつくままに伝えた。
(でも、基本的に、そのひとのびびっとすることと私のびびっとすることが重なることって珍しいと思うし、私がつらつらとあげても、私の本当に知っていること・感じていることは伝わっていないと思う。)
「できれば、その土地の生活に実際に入って知りたいんですよね」と彼女は言う。
その言葉尻に、民家など一般の方で泊めてくれるようなひと、という意味合いを感じた(これま仕事の場をともにした機会に、彼女の人との接し方や関係の作り方を見て、そういうスタイルなんだろうな、と思ったから)。
ただ、私の知っているお世話になったたくさん方々を、本人たちの意向も最近のことも把握しないままに紹介することには抵抗があって、当たり障りのないひとや場所を挙げるにとどめた。
来週にでも行くことになりそうで、と笑う彼女。
食事の最後に、何気なく、「わたしきっと、すぐに泊めてもらう家を見つけると思います」ってにっこり言っていて、私は、ああ、きっとそうだなあ。と思った。
彼女はきっと、あのひとなつっこい笑顔と無邪気さで、きっと東北にまたあたらしい”家族”を見つけるのだろう。
と同時に、じぶんのこころが小さくずきっとして。
わたしは東北にいるあいだ、ほとんど、取材先の家に泊まることはなかった。もちろん何度かあったし、いまでもいつも会いに行く大事なひとたちは東北にたくさんいるのだけれど。
子どものころからずっとひとに甘えることが苦手で、あまりにもお世話になることに対して、申し訳ない気持ちになってしまうのだ。
そして、やっぱり何より、彼らが生活を立て直すのにさえも苦労しているようすをずっと見てきたから。
漁師や農家や、地元の行政。
働いて、稼いで、つつましくも豊かな生活をしている東北のひとたちをおそった東日本大震災は、彼らからほんとうにたくさんのものを奪った。
着の身着のままで生き延びたひとたちは、あらゆる生活品を買いそろえ、家を修理し、もしくは再建して、ようやく生きてきた。
そのようすを間近で見てきたからこそ、食事一回をごちそうになることも、とても、恐縮するのだ。話している中で、彼らが貯金をすこしずつ切り崩して生活していることを、耳にするから。
だから、わたしは、どうしても彼女みたいな根っからの無邪気さを持てない。
じぶんひとりの食事、とはいっても、じぶんひとりの水道代、といっても、すぐに、気にしてしまう。
じぶんのちっぽけさがいやになるのだけれど、でも、その感覚を間違っていない、とも、あたまのかたすみでもうひとりの自分が言う。
取材って、相手の懐に入っていくことであって、そこには図々しさが必要だ。
わたしは自分の図々しさを知っている。と同時に、臆病さも知っている。
彼女とわたしは違う。
でも、どうしても、東北で聞いたたくさんのひとたちのつぶやきがいまも耳に残っているわたしは、「泊めてもらおう」って、簡単には言えなくて。
どっちも間違っていなくて、どっちの選択もいいと思うのだけれど。
じぶんにないものを、うらやましがっているだけなのかもしれない。
パリの最後の一週間で起きた不幸(※ややふちゅうい)の記録。
きょうは生々しさをだいぶ忘れそうになりつつの、1か月ほど前の一週間のあいだにおきた、不幸(不注意)の備忘録。
① 停電に続く電気工事
9月あたまの週末に、ストラスブールに行ったのですが、その直前の夜、友だちの家に食事にお邪魔をして0時近くに帰宅したところいっさいが停電していて。
荷造りもできていなかったのだけど、何しろ明かりがないと準備できないので、早朝出発ではあったのだけど、わけもわからずひとまず寝ました。
起きても電気は戻っていなくて、ひとまず日の出のほのかな明かりをもとに荷造りをして、ストラスブールへ出発。停電について思い当たる原因もなくて、だから、帰ってくる頃(4日後)には直っているのではないか、と思っていました。
・・・が。
4日後にパリに戻ってきても、停電は直っておらず。
悲劇は冷蔵庫。冷凍のミックスベリーが溶け出て大変なことになっており、中華スーパーで買ったお気に入りの絹ごし豆腐は発酵して膨らんで大変なことになっていました。。
そこでバカンス中の大家さんへ連絡したものの(パリでは基本的におうちのトラブルはすべて大家さんに手配してもらう)、大家さんは電気屋さんを呼びたくない(お金がかかるから)ので、大家さんとSMSでやりとりしながら模索すること半日。それでも直らず、ちょっと強めに言って、電気屋さんに来てもらったのです。
が、原因はあっさりとわかり、ブレーカーの中のねじが弱って接続が悪くなっていただけで、すぐに直してもらったのだけど、それ以外にみっつも、工事が必要だと指摘され、けっきょく最後の一週間の火曜日の朝に工事に来てもらうことに。
もはや自分はすぐに出るのだけれど・・・と思わず言いそうになったけれど、せっかくなら家を良い状態にして最後出た方がいいかな、と思って、工事をしました。
ちなみに何を工事したかというと、キッチンの明かり(入居時から切れていてすぐ大家に言ったけどスルーされていた案件)と、アース(家全体の電気配線にアースがなかった。ふつうに危険。)と、ブレーカー内の配線の交換。
これはわたしの不注意ではなくて、どっちかというと単純な不幸だけれど、思えばこのアパルトマンは、入居以来いろいろな不幸に見舞われて、良い思い出っちゃ良い思い出なのかも知れない。いま思うと。
② スリ
はい。
スリにあいました。。。
まわりの友だちが軒並みヨーロッパでスリにあったことがある中、 これまでいちども遭遇したことがなかったのだけれども。
って、経験したあとに言うのは、負け惜しみですね。
現場はメトロ1番線。ルーブルや凱旋門など、いちばん観光名所をとおるメトロで、日本語でスリ注意喚起のアナウンスがされるほどなのだけれど、その日はちょうど、友だちや日本のひとたちへのプレゼントやお土産を買った直後で、両手に紙バッグを持っていて、最後の一週間だったこともあっていろんな予定が詰まっていてあたまのなかにいろんな考え事がめぐっていて。
ぼーっとしていたことは否めません。
そして、リュックのいちばん上に財布をのっけていて、「あぶないかな~」とぼんやり思ったことも、覚えています。
でも、さらりと鮮やかにすられまして。
友だちとランチの待ち合わせの直前、メトロ降りた直後に気づいて、友だちにその現場に合流してもらって、銀行やクレジットの会社に連絡して、ランチはキャンセル、そのあとの待ち合わせも一時間遅らせてもらって。
とほほ。
という感じでした。ほんとうに。
みんな、外国いるときは、一瞬たりとも気をぬいてはいけません。
それはリュックを前にかかえなくてはいけない、という訳ではなくって、「可能性がある」ということをあたまの中に入れておく、ということ。
最悪のケースを考えておくだけで、最悪のことはおきらないと思う。
という、こころの叫び・・・!
しかもそのあと呆れたのが、同じメトロの駅から泣く泣く家に帰るためにメトロにふたたび乗ったら(定期は別にしていたので被害なし)、その階段でまたスリにあいそうになったらしく、外国人観光客に「バッグあいているよ!」と注意されたこと。気づいたらリュック全開になっていた。
のこりは明日に。
灰色の男たち
ここ数週間、灰色の男たちに時間をぬすまれていました。
・・・と言って、もしも、わかってくれるひとはいるかしら。
いたら、嬉しくなってしまう。
灰色の男たち、というのは、ドイツの作家、ミヒャエル・エンデの作品「モモ」に出てくる「時間どろぼう」のこと。
フランスから帰国早々にものすっごい勢いで滝にのみこまれたかのようにさっそく取材の旅に出ています。
それはそれで、とてもうれしく、日々たくさんの刺激を受けていて。
けど、思考に言語化がおいつかなくて、仕事をこなすのにいっぱいいっぱいになって、まったくことばが出てこない日々が3週間ほど続きまして。
これじゃ、いかん。と思って、久しぶりにこのページを開いたわけです。
フランスでの日々の言語化もままなってないまま。
さて、どこからはじめようか。
いまいるのは、エンデの国、ドイツ。
わたしはそんなに教養も深くないし趣味も広くなくて、音楽も映画も本も、びびっという出会いやおすすめされて気に入ったものを手元に置いて、ときどきふりかえってかみしめるのが好きなのだけれど、そんななかでも「モモ」は、とくべつな一冊です。
あ、いま、こころに余裕がなくなっているな
と思ったときに、読みたくなる一冊です。
「モモ」は、時間がなんなのか、ひととひとが出会うとはどういうことか、をやさしく教えてくれる。もしくは、思い出させてくれる。
いまの世界はどんどん、灰色の男たちに時間をぬすまれている。
わたしも。
□■□
じつは、エンデの名作と言われる「はてしない物語」を読んだことがない、ということにきのう気づいたのだけど、「モモ」は何度読んだことだろう。(帰国したら「はてしない物語」も読んでみよう・・・。)
おわり。