森の日記

見たこと、知ったこと、感じたこと。

パリ18区。

18区と言ったらもう、だいすきな、モンマルトルの丘。

そもそも、悩んだときは高いところでぼーっとするのがすきなわたしは、落ち込んだときにはとりあえずモンマルトルへ行こう、という傾向にある。

18区は、パリの北部に位置する。東西を17区と19区に囲まれていて、南に9区と10区が接している。9区はちいさいので、歩いて行くとすぐに2区や1区にまで着いてしまう。北側はやっぱり、環状道路ペリフェリックを境に郊外に接している。

メトロの4番線の終点ポルト・ド・クリニャンクール(Porte de Clignancourt)には大きなのみの市があるので、その治安へのイメージの割に、訪れるひとは多いのではないか、と思う。この地区への思い入れやら思い出やらは、たっくさん。

そんななかでも、自分の中でとくに大きな記憶。

 

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ひとつめは、やっぱり、ポルト・ド・ラ・シャペル(Porte de la Chapelle)。 

前に少し書いたように、じぶんの中ではずっと引っかかっている場所。(ちなみに、パリには「難民街」と言われるところはほかにもあります(19区))。

 

mori-kei05.hatenablog.com

 

トラム3b線は、ずっとペリフェリック沿いを反時計回りにまわっていくので、これまで書いた20区、19区を車窓から眺めることができる。郊外のようすは、パリ中心部の賑やか華やかなものとは違い、道路はさらに広々としているし建物の背丈はさらに低い。お店の表情も、区内とはようすが違う。あまり店が多くないのと、たまにアフリカやトルコなど移民系のお店がある。そして何より、たぶん観光客がいない分、ひとが多くない。

だけれど、ポルト・ド・ラ・シャペルの近くはようすが違う。正確に言うと、そのポルト・ド・ラ・シャペルのひとつ前のコレット・ベッソン駅(Colette Besson)とディアヌ・アビュ駅(Diane Arbus)のあいだ。道路上にたむろしている若者の数が違うのだ。というよりも、それまでいっさいいなかった若者が、一定距離ごとに車道に座っておしゃべりしたりスマートフォンを見たり、ただぼーっとしていたりする。若者たちは明らかに、ルーツがアフリカ系のひとたち。見るからに「暇そう」、そしてそれがたくさんいるのだ。

さっき書いたもうひとつの難民街として知られる19区のほうは、段ボールに「シリア難民家族」や「助けて」などのことばをフランス語で大きく書いて掲げる家族連れが多かった。それに対して、ポルト・ド・ラ・シャペルは、若者が "たむろしている" という印象だ。

ただ、気を付けなくてはいけないのは、

ポルト・ド・ラ・シャペル = 危険 / 無法地帯 ではない

っていうこと。

もうすこしきちんと理解してから帰国したい、と改めて思った。

 

ふたつめは、バルベス・ロシュショアール駅近辺(Barbès-Rochechoart)。

まず、この名前は私にとってつねに挑戦だ。発音の面で。

フランス語ではまずRはのどでうがいをするような発音になる。それがこの人単語の中で3回出てくる。ややこしい。ので、ずっと前から印象に残っている。

というのは別としても、一度行ったことがあるひとなら印象に残るのではないかと思う。何しろいつ行っても改札の近辺に常に黒人の男性が多数立っていて、何かの紙をしきりに配っているのです。その光景が「ザ・バルベス・ロシュショアール」という感じ。

ちなみにあの紙きれ、なんなのだろう・・・?見ると、すぐそばにたくさん捨てられてちらばっている。私は、分からないものは受け取らないようにしている(とくにモンマルトルエリアなどは黒人など移民系のひとが無理矢理押し売りをしようとしてくる場合がある)ので受け取ったことはないのだけれど。

こうした、駅そのもののエキゾチックさや、あまり治安がよくない事情から、昔から安宿が多くある。私も、特に学生時代はこのエリアの短期アパルトマンを借りることが多かった。

治安は別として、個人的にももともとパリのおしゃれな雰囲気よりアフリカやアジアが好きなので、このメトロ近辺の空気はまったく違和感がなかったのだ。いちばん楽しかったのは、学生時代に1か月くらいこの近くのアパルトマンを借りて、友人たちとシェア生活をした思い出だ。

モンマルトルも近いし、異国情緒あふれているし、安いし、親しみあるお気に入りのエリアだった。

・・・のだけれど、2016年、同時テロ一年後に取材で訪れた際、現地に長く暮らす日本人コーディネーターさんにどきっとすることを言われた。

どうやら、この地区の住宅には、近年テロリスト予備軍でもあるひとたちがたくさん潜伏していて、アジトもあるし、それどころか街角のカフェで作戦会議していたりするというのだ。

確かに、とくにシリアなどの難民危機が大きくなってから、以前にもましてこのエリアの人混みは大きくなっている気はする。そして、この地区から少し北の道路に入ったところには、無許可の滞在者(いわゆるサン・パピエ)が違法に路上販売をしている常設違法マルシェのようなとおりがあって、そこでは「他者(よそもの)」に対する警戒心にあふれてぴりぴりしていた。

こんな光景は、以前にはなかった、と思う。

いや、もしかしたら気づいていなかっただけかも知れないけれど、もともと細道をうろうろ歩くのが好きな性分で、近辺もだいぶ歩いていたと思うので、たぶん、前はこれほど大きくなかったと思う。

気軽に行けるエリアではなくなってしまったのが、残念だ。いや、もちろん、まだ行けるし、通りかかってすぐに危険なことがあるわけではない。ただ、時間帯や服装、そして周囲のようすにきちんと注意する必要がある。

 

みっつめ。これはもう、モンマルトル。

最初のふたつにもネガティブな情報を書いてしまったけれど、そうしたことをもってしてなお、18区は、行くべき。そして、きちんと事実を受け止めることは大事だと思うし、その上で、きちんと魅力は魅力として満喫することがだいじ、だと私は思う。

 

モンマルトルの丘は、友だちが来た場合には必ずといっていいほど連れて行く(少なくとも欠かさず提案する)。

だって、ここほど自由でのびのびしている空間って、あんまりないと思うのです。何より、芸術家たちが愛した地区だけあって、小道を歩いているだけではっとする美しい風景が広がっている。しかも、いろんな。

石畳の小道に軒を連ねるカフェ、木漏れ日の広場、細くて急な階段と黒くてすらりとした手すり、そして壁に自由に描かれた落書き、どこからともなく聞こえてくる音楽。こぢんまりとしたブドウ畑や、芸術家たちが昔集ったキャバレー、ふいに置かれたベンチ。

それに、いちばん好きなのは、いつも混んでいるんだけど、サクレ・クール寺院の前の大階段。混んでいるんだけど、やっぱりここで座って見下ろすパリは、美しい。それに、よくいる大道芸人さんが音楽を奏でていて、ぼーっと聞きながらまちを眺めているだけで、こころが落ち着くのだ。

ぎっしりと立ち並ぶアパルトマンと、その上にはいまは使われなくなった煙突が立ち並んでいて、

ああ、こんなにも世の中にはたくさんのひとがいて、ずーっと昔から、怒ったり、泣いたり、笑ったり、食べたり、踊ったり、けんかしたり、そういう風にしながら生きてきたんだなあって、しみじみと感じられる場所なのだ。

 

常に町並みが変わっていく日本では、こういう場所ってなかなかない。

モンマルトルの丘に、私は何度来たんだろうと思う。そしてこれからも、何度行くのかな。

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5月。