森の日記

見たこと、知ったこと、感じたこと。

パリ19区。

ちょっといま、ショック。。。

 

さっき、忘れぬうちにきょうめぐった19区と18区も書こう、と思って、19区を書いていた途中だったのだけど、保存したつもりが消えていた。悲

・・・でも、気を取り直して、新たな気持ちで、書き直す。。

 

19区は、西側の18区と東側の20区にはさまれていて、南側には10区、北側にはやっぱり環状道路のペリフェリック(Périphérique)越しに郊外に接している。

この、18区、19区、20区というのはいわゆる「治安が悪い」と言われがちな地区で、しかもそんなに観光場所がないので、初めてのパリで訪ねることはそんなにないと思う。でも、サンマルタン運河(Canal Saint-Martin)やビュット・ショーモン公園(Parc des Buttes-Chaument)や、実はフィルハーモニー・ド・パリがあったりして、緑が豊かな地区でもある。

友だちでも住んでいるひとはけっこういて、わたしにとっては、「花の都パリ」というより「素顔のパリ」、というイメージ。なので、やっぱりぽつりぽつりと思い出がある。

 

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ひとつめは、サンマルタン運河。

これはもう、まず最初に多くの人がきっと分かるのは、映画「アメリ」の主人公アメリ・プーランが水切りをしている運河、ということじゃないかと思う。

movies.yahoo.co.jp

ただ、じつはこの映画のシーンで出てくる運河は19区ではなく、10区だ。(もう少しセーヌ川に近いほう)。

よく考えてみると当たり前なのだけれど「運河」(船舶がとおるために作られた水路)なので、これはセーヌ川に通じているのだ。

19区のサンマルタン運河は、アメリで出てくる運河よりも広々としていて、なんだか別物のようにも見える(けどもちろんつながっている)。

とくに、メトロの2番線、5番線そして7bis線が通っているジョレス駅(Jaurès)を出てすぐのエリアは、再開発されたみたいでものすごーく広々した空間になっていて、映画館やら運河沿いでのビアテラスやら、おしゃれスポットになっている。

わたしにとっては、友だちとぷらぷらさんぽしながらおしゃべりした思い出のある場所。そして、なぞの綿毛がふわふわと飛び交っていた記憶・・・(あの綿毛はどこから来たのだろう?たんぽぽの綿毛の5倍くらいの大きさで、木の幹やベンチや地面に積もって雪みたいになっていて、たぶんきっと、木の綿毛・・・?)。

やっぱりだんだん、わたしたちの年齢になってくるといろんなことを考える。仕事は、恋愛は、結婚は、これから生活する場所は?

ほんとうに偶然なのだけれど、このジョレス近くの運河沿いで、何人もの友だちと、同じようにつらつらと話をした。

 

あるひとは、恋人と別れそうであること。結婚や今後のことを見いだしかねているということ。

あるひとは、自分の仕事の将来性について、不安をずっと抱えているということ。

あるひとは、来年からアフリカへ新天地を求めて行く決意を固めているということ。

 

ひとがいる分、それぞれの悩みや希望や目標はちがう。私と同じ思いで同じことをしている人は、たぶん世界に二人はいない。いや、もちろん、似たような問題意識だとか似たような職業、というひとはきっと絶対いるけれど、生まれ持ってから誰かにコントロールされ続けていない限りは、「完璧に一緒」なんてことはあり得ないのだ。

そんなことを、思う場所。

あと、この駅の近くには屋台が出ていてビールやカクテルやちょっとしたおつまみを買えるのだけど、ビオの屋台のまわりにミツバチがぶんぶん飛んでいたことも、記憶に残っている。

パリでは、パン屋さんのショーウィンドーに並ぶパンに夢中でかじりつくミツバチに遭遇することがよくある。でも、みんな、気にしていない。私もこっちに来てから、ミツバチに対しての抵抗感(恐怖心)がすっかりなくなった。

わたしたちも大好きなハチミツをつくってくれて、果物や野菜の受粉を手伝ってくれて、いっしょうけんめい働いてくれている、ミツバチ。

ちょっと、やっぱりハエがたかっている食べものは「ううーん」と思うけれど、ミツバチがいっぱいいるお店やパン屋は「おいしいんだろうなあ」なんていうおおらかな気持ちで受け止められるようになった、この1年の変化。

 

ふたつめは、すこし20区ともつながるけれど、10区との境目に続く、大通り。

この両側にはたくさんの移民のお店が連なっている。アラブ系のパン屋さんや商店、レストランやモスク、中華系のレストラン、スーパー、、、。歩いているだけで、民族の多様さやカラフルさが目にとまる。

そんなかで私が心に残っているのは、小さな扉のモスク。アパルトマンの扉くらいの存在感のなさで、この地区にはモスクがたくさんある。

宗教施設って、その時代の人間の英知が結集している、という印象がある。

たとえば日本だって、お寺や神社は小さいものだってそれなりだし、奈良や京都、鎌倉などを訪ねると、その美しさや荘厳さにやっぱり圧倒される。

パリを始めヨーロッパには大小様々の教会があるけれど、観光名所ではない街角の小さな教会でさえも、なかの空気はしんとして、美しいステンドグラスがある。

モロッコにいったときにはモスクに、タイへいったときはきらびやかなお寺に、バングラデシュにいったときはヒンドゥー教のお寺やイスラムの建物にそれぞれ感動した。

・・・でも、パリのモスクは、違うんです。もしかしたらほかの国にも、こうして存在するのかも知れないのだけれど、ものすごくひっそりと、つつましく、むしろちょっと貧相なのです。存在感を消して、なんとか街に紛れ込もうとしているようで。

信仰の自由はだれにだってあるはずなのだけれど、社会のなかから「不可視化」されているような・・・。

活気のある大通りを歩いていてふっと出会う、ちいさなモスクの扉が、印象に残っている。

 

あともうひとつは、ビュット・ショーモン公園。パリの緑地としては最大規模のものだそうで、斜面が印象的な公園。ちなみにビュット(Butte)は丘、ショーモン(Chaumont)を意味するそうだ。

ここの、転げ落ちそうな斜面で、ピクニックをした。

もともとこの公園は、地下から石膏や石臼が採掘されていたそうで、その跡はゴミ捨て場となって荒れ果てていたところを、前に書いたオスマンさんが公園として整備することを計画したのだという。

いまは、私たちみたいに斜面に負けずにピクニックしているひともたくさんいるし、友だちによると、公園内にあるカフェは夜になるとLGBTのひとたちが集う場になっているそうだ。

歴史をたどるとまったくちがう顔を見せる場所が、人々の穏やかな憩いの場になっているってすごいな、と思った記憶。

 

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夜にかがやくエッフェル塔やセーヌ川沿いのきらびやかなパリもすてきだけれど、やっぱり、実は心に残っているのは、こういう何気ない風景だったりする。

日本のことを考えても、実は何かのときにふいに思い出すのは、通い慣れたじぶんの母校の何気ない廊下や教室の風景だったり、最寄りの駅だったり、じぶんの日常の記憶のすぐそばにある風景だったりする。

 

そういう小さい記憶を大事に生きていきたいなあ、と思うのです。

パリ20区。

けさ、いつものように12区に住む友だちの家の猫のお世話をしてから、パリの外周を回っているトラムに乗って、パリの北側をぐるりとまわってきた。

 

友だちの住んでいるポルト・ド・ヴァンセンヌ(Porte de Vincennces)は、昨日書いたとおり12区にあるのだけれど、正確に言うと12区と20区のちょうど境目上にある。

パリの右岸(パリ市庁舎やルーブル、コンコルド広場から凱旋門)を横切るメトロの1番線とともに、北に向けてはトラムの3b線が、南(セーヌ左岸)に向けてはトラムの3a線が走っている。

その3b線に乗って20区、19区、18区までまわり、ついでにそこからさらに北上して、パリ区外である、サン=ドニからボビニまで、こんどはトラムの1番線(T1)に乗って回ってきた。

 

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パリ20区は、上に書いたとおりに12区の北側に接していて、パリの東側に位置する。中心から渦巻き型で広がってぜんぶで20区あるパリの行政区の最後の一区なので、すぐそばに、パリの環状道路ペリフェリック(Périphérique)が走っていて、そのすぐ外側はもう郊外(バンリューBanlieu)だ。

ここで有名なのは、ショパンやプルースト、マリア・カラスなどの著名人が眠っているペール・ラシェーズ墓地や、丘に沿って広がるベルヴィル公園など。

でも、たぶん、よほどこうした著名人を悼みたい、などの特別な思いがなかったら、普通は観光ではなかなか行かないエリアだと思う。治安とかそういうことを抜きにして、そもそも、一般的に多くの人が「パリ」に期待するものは、ないから。

 

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ただ、私にとっては、例によっていま暮らしている11区のお隣さんでもあり、身近な区でもある。

 

まず、思い出すも何も、いまもとても身近な地区、ベルヴィル。

正確には、ベルヴィルは11区と面して北側の、19区と20区に広がる一帯だ。ベルヴィル(Belleville)とは、直訳すると「美しい街」という意味。

そんなこの地区は、実は1914年~1918年の第二次世界大戦のあとから移民を受け入れてきた。最初はポーランド、アルメニア、中央ヨーロッパのユダヤ人たち(特に1942年の夏に激増したそう)。1950年からは次にチュニジア系ユダヤ人コミュニティの波が押し寄せ、60年代にはマグレブ系(モロッコ、アルジェリア、チュニジアなど北アフリカ)の移民がやってきて、80年代になるとアジア系の移民が急増。

移民がさまざまに混じり合い共存し、パリに溶け込むための "クッション" になってきた地区でもある。

そもそもパリ同時テロのあとから、この地区への(個人的な)思いは強いのだけれど、いちばん最近の思い出は、フランスの革命記念日7月14日。

 

毎年、日が暮れた23時、エッフェル塔から花火をあげるのが恒例で、わたしは、友だちと一緒に花火を見に行く約束をしていた。

ja.parisinfo.com

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一生懸命背伸びしてとった花火。もはや花火というより、蛍の光。

でも、人混みに巻き込まれるのや、あんまりにも早く行くのがいやで、相談した結果、「公式案内」でもおすすめされていたベルヴィル公園で見ることを決めた。(ベルヴィル公園はなだらかな丘になっており、パリ自体は起伏がほとんどないこともあって、公式案内でも「少し遠目だけれど、丘からは美しい花火が見ることができる」と書かれていたから)。

22時ころから公園の芝生で夜のピクニックをしながら花火を待っていた(このとき、なぜかレジャーシートに集まってくる草原のナメクジたちとの静かな戦いがあったのだけれど、それはまた良き思い出・・・)。

まわりにもたくさんの花火見物客がいて、楽しみに待っていた23時。

音が聞こえ、始まったことが分かる。

・・・でも、見えない。

公園の木が邪魔で。。

それから、ピクニックをしていた私たちや周辺の人たちの「花火見えるスポット」を探し求める大移動が始まった。あっちへいったりこっちへいったり、本当、民族大移動のようなひとの渦。

でも、見えない。どこに行っても、公園の木が邪魔で。。。

丘のいっちばん上の、柱の脇から、ようやく、本当にようやく、すこーしだけ見ることが出来た。でもそのころにはほぼクライマックスだった。

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一生懸命背伸びしてとった花火。もはや花火というより、蛍の光。

そんなこんなでわたしの革命記念日は終わったのだけど(まあ、フランス人の友だちは置いておいて、日本人の私にとってはフランス革命はお祭りじゃないっちゃお祭りじゃないしなあ、などと思いつつ)花火も終わってまっくらになったし、そろそろ帰ろうか、と出口に向かおうとした、そのとき。

広場の端で、なんだか突然、太鼓やら笛やらのエキゾチックな音楽の演奏が始まった。街灯も日本みたいにちゃんとないので、暗闇なのだけど、なんだかアフリカンな、民族的な音楽。そして、その周りで突如、音楽を奏でるひとたちを囲むように、人々が踊り出したのだ。

音楽隊のところにあるあかりのほか、ほとんど見えない中で、輪になった人たちがひたすら激しく楽しく踊っていて。そのなかにはアフリカ系のひともいればヨーロピアンのひともいたし、女の人も男の人も、いろんなひとが混じり合っていて、みんな笑顔で踊り狂っていて。

「わあーーー」と、思った。

花火見れなかったけれど、花火よりもずーっと美しくてエネルギーのあるものを見た気がした。

踊りの才能のないわたしは、手をたたいて「すごい!」といったちんけな感想しか言えなかったけれど、いっしょにいた友だちと笑って、すごく楽しい気持ちになった。(すでにそのとき0時近く。)

どんちゃん騒ぎはその後もずーっと続いていたので、15分ほどいっしょに過ごしてから、わたしたちはそっと帰ったのだけれど。

「ベルヴィル」って言ったとき、この暗闇の中で繰り広げられていた、どこの国の文化とも言えないけどものすごく盛り上がっていた音楽とダンスの光景が浮かぶ。

「移民」とか「異なる文化」が混じるって、こういう、ことばを超えた豊かなところにあるんだよなあ、と、思ったのだ。

 

もうひとつ、20区といったら、映画「パリ20区、僕たちのクラス」。

class.eiga.com

これは、移民の多い20区の中学校で、ひとりのフランス語教師とさまざまなバックグラウンドを持つ子どもたちの1年間をみつめた映画だ。

ちょうど、10年前の留学したばかりのころにフランスで話題になっていて見た映画で、わたしにとって、フランスの移民問題を「感じる」最初のきっかけとなったひとつでもある。

最近は変わってきているとは言え、いまだ日本人がほとんどを占める日本の小学校、中学校の教室でも、いろんな問題が起きている。

そこに、さらに文化や言語、背景の違う移民の子どもたちがいるのだから、問題はさらに複雑だ。

ことばって、勝手に話せるようになるものではない。外国語を学んで改めて日本語を考えても、やっぱり、家族や友人、先生、本、テレビなど、いろんなものをとおして表現や読み書きを学んでいくのだ。

両親がフランス語を話せない家庭に育っている子どもや、問題ばかり起こしてしまう子ども。先生たちの事情。

一筋縄ではいかない現実を、そっと見つめていたこの映画は、テロなどの課題を抱え続けるフランスの縮図でもあるし、いまの世界が目を背けずに向き合わなくてはいけない現実なのだと思う。

 

わたしにとって、パリ20区は、そんな、難しいけれどとても豊かでエネルギーのある地区。

観光ではない一面が、どこの街にでもあるのだという当たり前のことを再確認する地区。

パリ8区。

さっき更新したばかりなのだけれど。

 

mori-kei05.hatenablog.com

 

ふたつめになるけど、きょう、行ってきた8区についても。

8区は、パリのやや西寄り、セーヌ川の北岸(右岸)に面している。なんといっても、7区・8区はフランスの政治・行政の中心であって、エリゼ宮はもちろん、凱旋門やらシャンゼリゼ大通りやらコンコルドやら、華々しいエリアだ。

ただ、面積的には小さいので、あっと気づいたらたぶん通り過ぎているんじゃないかと思う。隣接しているのは、西側に16区、北側に17区、東側に9区と1区。あと、セーヌ川の対岸に7区。

 

あまり住宅は多くないけれど、観光名所や大きな駅サン・ラ・ザールもあるが故に、きっとパリを訪れた多くの人が知らず知らずにでも歩いている地区だ。

 

そんな8区は、なにしろあまのじゃくで「人が行くところはきらい」な私にとってはすこし遠い地区。でもやっぱりなんだかんだの思い出も。

 

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ひとつめ。オスマン通り(Boulevard Haussmann)。

オスマンさんは、そもそも現在の「パリ」を作ったひととして知られている。ナポレオン3世の時代の、パリ改造のことだ。特に象徴的なのが、凱旋門をのぼったときに発砲へ広がる大通り。とってもきれいに広がっている。そして、そこから小道がつながる。こうした「ザ・パリ」の町並みを作ったのが、当時のセーヌ県知事オスマンだった。

凱旋門から放射状に広がる大通りのひとつが「オスマン通り」なのだけれど、この通りはわたしのこの1年の思い出に残った。なんでかというと、ここをずーっとまっすぐ歩くと我が家のあるレピュブリックまで行けるから。

修士の授業について行けなさすぎて、しょんぼりしながら、なんどもこの道をとぼとぼと家まで1時間くらいかけて歩いて帰った。なんでかというと、大学が、この凱旋門から少し南西に歩いたところだったから。

悩んでいるときや落ち込んでいるときに歩く癖がわたしにはあるようで。

クラスメイトの友だちに電話で励まされながら凱旋門横を歩いた記憶が、くっきり刻まれている。(ぜんぜん華やかじゃない・・・笑)

 

ふたつめ。モンソー公園。

17区との境目あたりにある公園。きれいです。うん。

さんぽしたり、芝生で寝転がったり、ジョギングしたり、みんな思い思いに過ごしているきれいな公園。学生のときに見たオムニバス映画「パリ・ジュテーム」のなかのひとつの物語のロケ地にもなった(アルフォンソ・キュアロンが監督)。これは、モンソー公園が直接出てくるわけじゃないのだけど、フランスの子育て事情やおとなの事情が垣間見えてかわいいエピソードだ。

あと、日本には「モンソー・フルール」がやってきていて、ちょっとおしゃれなお花屋さん、のイメージだけれど、こっちでは、リーズナブルな花屋さん、のイメージ。

www.concent.co.jp

私にとってモンソー公園やモンソーフルールは、なんだか外から見たフランスと、じっさいに暮らして見えるフランスの、「ずれ」がやさしく見える地区。

そんなに行ったことはないけれど、10年前にはインターン先で出会った同世代のフランス人青年と、今年はフランス人マダムと、公園内でつらつらとおしゃべりを楽しんだ思い出。

 

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あと、凱旋門やシャンゼリゼ通りについては、とくに10年前、日本人の女の子の友だちが訪ねるたびにぜったいにフランス人のおじさんにナンパされていたのが、印象的な思い出だ。

フランス人のおじさんたち(男性たち?)のなかで「親日家」が一定数いて、そうしたひとは若い日本人の女の子に話しかけ、パリの小ネタを披露し、カフェをごちそうし・・・という流れがある。

フランス人の、とくにおじさんの「ナンパ癖」に警戒心たっぷりだった当時のわたしは、友だちが軒並みナンパされているのにやきもきしていた記憶がある。

なんでかというと、これはサンミシェルという地区のレストランで食事をした際だったけれど、店主のおじさんとの雑談で「日本人の女の子って、簡単だよねえ。すぐ口説けるし(なんならすぐ身体の関係も持てる)。」と言われたのがくやしかったから。

でも、当時の自分も、ずいぶんかりかりしていたな、と今になっては思ったりもする。大学生だったときの自分の、青臭さやきまじめさが懐かしくなったりもする。

 

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なんだかすてきな思い出はそんなにない、8区・・・。

 

皆さんは、フランス、凱旋門に行ったことがありますか。

どんな思い出が、ありますか。

パリ12区。

パリは小さい。

 

端から端まではメトロで30分から1時間で横断出来てしまうし、メトロを使わなくても1時間ほど歩けば別の地区へ行ける。

でも、地区によって「これでもか」というほど町並みが変わるし、文化もいる人も変わる。

観光で有名なのはやっぱり中心部(あとサクレ・クールとか少し点在する名所)だ。けれど、住んでみて初めて、こうした小さい中に豊かに文化が凝縮された空間であることが、パリの人を惹きつけてやまないゆえんなのかも知れない、と思う。

(ただ、面白いのは、パリの住民たち自身はあまり自分の区から外に出ない、ということ。生粋のパリジェンヌ、パリジャンのおじいちゃんやおばあちゃんたちは、自分の区を「村」のように誇りに思っていて、ちっとも外に出て行かないのだ。)

 

20区をそれぞれめぐる、という目標を以前に立てたのだけど、どんな風にまとめようかな・・・と思案した結果、個人的な思い出に基づいた記録をすることにした。ちょっと偏っているけれど、偏らない記録なんて存在しないから。わたし、という人間が、わたしの日常をとおして得た、地区の記憶。

 

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11区に住む私にとって、パリ12区は、お隣さんだ。渦巻き状に数が数えられているパリの20区の中で、12区は、南東部に位置して、セーヌ川の北側(右岸)にある。

自然が多く、とにかく広い。そして、落ち着いているし地価の上がるパリにおいても比較的リーズナブルなこともあって、フランス人が家庭を持つのに好むそうだ。

地方へつながる駅でもあるリヨン駅やバスティーユ広場、ヴァンセンヌの森など、いろんな顔を持っている12区。

でも、私自身も基本的に自分の住む11区に出没していたので、あまり12区についてはなじみがない。

そんな中で、思い出すことを、みっつ!

 

 

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ひとつめ。シネマテーク・フランセーズ。

 

ジャック・タチ、というひとを、知っていますか?

eiga.com

これ(↑)は、2014年に日本で行われたという映画祭のお知らせなのだけれど。

フランス人の映画監督(かつ俳優)で、「ぼくの伯父さん」シリーズや「プレイタイム」など、コミカルでくすっと笑えるけれどフランスの空気をとてもやさしく描いている作品で知られる。

タチは、監督と同時に主演を勤めているのだけれど、のっぽで帽子とパイプがトレードマークの「ムッシュー・ユロ」(これが "伯父さん")を演じている。もうね、音楽がすてき。あと、ユロおじさんの動き。ほとんど台詞はなくて、ないのに、分かる。そして、ちょっとだけ切ないノスタルジーの余韻が残る。

フランス語を勉強し始めたころにこの映画に出会って、もうとにかく、この映画の世界観にすっかり魅了されてしまったわたしが、どうしてもタチのことを知りたくて(日本ではまだあまり知られていなかった)、一回目の留学の時に行ったのが、タチ生誕102周年のイベントをやっていた、シネマテーク・フランセーズだった。

それまで、交換留学時代もほとんど一人じゃ冒険していなかった自分が、初めてシネマテークに行って、このユロおじさんを見たとき、とにかくテンションがものすごく上がったことを、強く強く覚えている。

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当時のシネマテーク・フランセーズ。ユロおじさんと、連れの子犬のシルエット。

シネマテーク・フランセーズだけじゃなくて、フランスにはシネマ(映画)に関する建物や映画館がまだまだ本当にたくさんあるのだけど、この、初めて行ったシネマテーク・フランセーズの光景は、フランス人たちにとっていかに映画が大切なのか、ということを空間全体で感じた、原経験だった。

このシネマテークがあるのが、パリ12区。

 

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ふたつめ。フランスの「お金の流れ」を司る、ベルシー。

ベルシー(Bercy)というのはそもそも、地区の名前で、だからこの地区にはベルシー・ヴィラージュとかベルシー・アリーナとかいろんな観光施設もあるのだけれど、フランス人にとっては、通称「ベルシー」といったら「経済・財務省(Ministère de l'Economie et des finances)」をさす。なぜかというと、このベルシー地区にこの省があるから。

つまり、フランスのお金の流れの根本を司っている省庁であって、私の所属していた公共政策学の修士コースのフランス人生徒たち(官僚や官僚を目指す人たち)にとっては "輝かしいスーパー・エリートたち" の働く場でもあった。

授業中に「ベルシー」「ベルシー」としきりに名前が出てくるので「ふーん」という程度だったのだけれど、5月にこの "華のベルシー" で出張授業が行われたので、実際に行くことになった。フランス人の生徒たちはみんなものすごく、ほんとうにものすごく、喜んでいた。

・・・のだけれど。

じっさいに訪れたベルシー(経済・財務省)の建物が、ものすっっっっごく古くて。しかも、バカンス中だったからか、ほんっとに人がいなくて。

建物は右も左も似たような作りで窓もなく「ましかく!」という感じののっぺりとした作り(だから建物の中なのにめっちゃ道に迷う)だし、フランス人にとっては水の次に大切なカフェマシーンもほとんどないし、そもそも人がほとんどいなさすぎて「セキュリティ大丈夫?」という感じで。

休憩時間にカフェマシーンとトイレを探し求めてさまよいながら、「これは典型的な前時代のフランスの象徴よ」と言うフランス人のクラスメイトたちと、笑うしかなかった思い出。

フランスのエリゼ宮とか、いかにも「フランス」のイメージとして浮かぶ華やかな舞台の一方で、現実ってそんなに甘くないのだよな、、、と、そんな当たり前のことをしみじみと思った。

そんなわけであまり心躍らない出張授業だったけれど、ランチの休憩時間に(きちんと1時間半あった)ベルシー・ヴィラージュ(Bercy Village)という、もともとのワイン倉庫をショッピングモールにリニューアルしたおしゃれスポットまでみんなで散歩して、オバマ大統領が大好きだというハンバーガーショップ「Five Guys」でがっつりとしたハンバーガーを買って、5月の青空の下でピクニックしたのは、なんだかすごく楽しい思い出だった。

www.bercyvillage.com

ベルシー・ヴィラージュは広々としているし、パリのバリアフリーまるで無視な街作りの中では比較的回りやすい場所だと思うので、観光にいいなあ、と思った、そんな思い出。

このベルシーも、パリ12区。

 

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最後に、セーヌ河岸からの長い長いさんぽ。

この1年、ずーっと毎週のように、多いときは週に2回も、フランス人の友人にフランスの社会制度やフランス語を教えてもらっていた。そうでないと、とてもとても、授業について行けなかったから。(たとえば上に書いた「"ベルシー"といったら"経済・財務省"」といったことも、フランス人にとっては常識でも私は知らないから、授業の話題についていけないのだ。「何が分からないのか」が分かっていなかった私にとって、定期的にフォローしてくれるネイティブフランス人の手助けが欠かせなかった)。

だけど、彼女が春に、パートナーの仕事の都合でパリを離れてしまってから数か月会えていなくて。もうその頃にはほとんど授業も課題も終わっていたので、物理的に困ることはなかったのだけれど、半泣きになりながら課題に向き合っていた私をずっと穏やかに励まし続けてくれた彼女は、私にとってとても大事な友だちで。

そんな彼女と再会できた、8月。(ほんの数週間前!)

待ち合わせはセーヌ川沿いの、「パリ・プラージュ(Paris Plage)」。

基本的にフランス人は夏(7月半ば~8月末)は「バカンス!」モードで、ほとんどの人たちが数週間のやすみをとってどこかしらの海辺に出かけるのだけど、バカンスへ出かけずに海なし街のパリに残るひとたちのために、毎年セーヌ川沿いにフェイクの「海辺」を再現している取り組みが、「パリ・プラージュ」(今年は7月6日から今日まで)。

en.parisinfo.com

河岸に出店しているバーで久しぶりに待ち合わせた彼女は、身内の事情や自身の健康などで、とても疲れて見えた。私よりももともと年上だったけれど、疲れたようすにびっくりして、少しずつおしゃべりをしながら話を聞いた。話が止まらないまま、夕ご飯を食べよう、ということになって、彼女の滞在している12区のアパルトマンの方へ向かって散歩をすることになって。

セーヌ川沿いは、もともと歩道より車道がほとんどだったのだけれど、数年前から車を減らすという取り組みもあって、散歩道が拡大されたそう。待ち合わせたのはサンルイ島も近い4区の河岸沿いのバーだったけれど、そこから河岸を歩いて歩いてバスティーユ広場へ着き、そこからさらにドメニル通り(Avenue Daumesnil)を歩いて歩いて、ドメニル駅の広場まで着いて、その近くのピザ屋さんでピザを食べた。

1時間半以上、歩きながら、12区の地区の話を聞きながら、いろんなことを話しながら。

ドメニル通り沿いには、もともと最初の鉄道が走った跡である高架が残っていて、その高架のうえを歩くことも出来る。そして、高架下にはたくさんのアーティストたちのアトリエやギャラリーが軒を連ねている。

パリの夏とは言え、20時を過ぎてどんどん暗くなっていく中で、ずーっと高架沿いにおしゃべりをしていたあの時間が、なんだか夢みたいで、でも心のなかにずっしり残っていて、さんぽっていいなあ、おしゃべりっていいなあ、って改めて思ったのでした。

ゆっくり歩きながらつらつらと話していると、日頃はぜったいに話さないようなことも話せたりする。そのとき見ていた景色は、歩きながら過ぎ去っていくようで、でも、話した内容とともに心には残っている。

写真を撮っていないことを少しだけ悔いたりもしたのだけれど、写真で残すより、自分の記憶にのこったアメリと歩いたあの夕暮れ時のパリの通りの光景を、大事にしたいな、と思ったのでした。

このバスティーユからピザ屋さんまでの道のりもずーっと、パリ12区。

 

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それ以外にも、ぽつりぽつりと、思い出はたくさん。

 

私が、いまから12年前、ほんとうに初めてフランスに来たとき、フランスの田舎町へボランティアステイに行くために特急(TGV)に乗り換えたのも、12区のリヨン駅だった。

あのとき、たったひとりで、つたないフランス語でどきどきしながら入ったリヨン駅前のカフェの風景をいまでも覚えている。

 

きょうまで1週間くらい、バカンスでギリシャへ旅立った友だちの飼い猫のえさやりのために通ったアパルトマンも、12区のポルト・ド・ヴァンセンヌ(Porte de Vincennces)。

 

その友だちの家でお茶をごちそうになったあと、友だちの新しいボーイフレンドと3人で食事をしたレストランがあったのも、12区のポルト・ドレー。

 

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こうして、小さな思い出が積み重なって、ひとりひとりにとっての「地区」の色ができあがっていくんだな、と思う。

一般的な歴史的建造物や観光スポット、名所ももちろんすてきだけれど、わたしは、「その人にしかない思い出」が好きだ。

私にとってのパリ12区は、ほろ苦い思い出やあたたかい思い出が入り交じっている。

 

みなさんは、どんな街に、どんな記憶がありますか?

 

こうやって、地区の記録も残していきたいなと思います。(でもきょう入れてあと14日しかないから、20区制覇するためには少し盛りだくさんに書いていかないと・・・!)

ラストスパートの、二週間。

あしたから(時差のある日本では、きょうから)9月。2019年も残すところあと4か月。三分の一だ。

 

先日、帰国までのノルマを書いた。

 

mori-kei05.hatenablog.com

 

いまのところ、の現状と、ラストの二週間に向けて・・・。 

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1.一日一ニュース。朝ラジオとフランス・アンフォ・ビデオに触れる。

 これはけっこうやっている!よし!

2.フランスの食材を意識する。マルシェ、行く。

 地元マルシェについに(買い物をしに)行った!ブロッコリー、スーパーよりずーっと新鮮だった。「野生イチジク(figue de barbarie)」甘いって言われて買ったけど、たね大きすぎておいしくなかった・・・。調べたらサボテンの実みたい。どおりで、モロッコを思い出したわけだ。

3.在パリ日本人とのネットワーク作り。

 これは、すごくすてきなひとたちと出会えた!こっちに根付く、長くいる人たち。この人たちの活動をフォロー、そしてゆくゆくは言語化したい。

4.在パリ・フランス人とのネットワーク作り。

 これも、まあまあ?エチオピアで出会ったフランス人や、これまでに仲良くなった人たちと再会。少なくとも、過去の私より、だいぶ社交的。

5.帰国までに最低10つの美術館へ行く!

 ああ・・・残りの二週間が勝負。(このあいだ、すでに行ったことのあるロダン美術館へ行って再び「考える人」を見たけど、そのあとは普通に庭でサンドイッチ食べただけ。)あ、でも、ストラスブールで現代美術館と、コルマールで自然博物館へ行った。ここで感じたことについても、おいおい書きたいなあ。

6.一日一区、と決めて、すべての地区をまわる。

 これ、全然・・・。でも、けっこうこの1か月で歩いたのも事実。今度整理する。でも引き続き、回る。  

7.Porte de la Chapelleエリアに通う。アソシエーション探す。

 行ってなかった・・・!行かなくては。

8.誰とでもいいから、とにかく話す。話す。話す。

 これ、がんばっている。

9.いまさらだけど、論文がんばる。規則正しい生活。

 がんばっている。

10.いまここにいることを、全力で楽しむ。

 これも、がんばっている!

 

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最初の勢いはどこへやら、どんどん後半、現在進行形になってしまった。笑 でも、ものすっごく机にかじりついていた10か月ほどと比べて、この1か月は明らかに動いたし、有言実行に近づいていることを感じている(だって、まだ「出来た!」て言えないことでも、始めたり動いたりしていたから)それは自分でも、よしとする。でも、それをアウトプットできていない・・・。どうしても、知的・精神的にいっぱいいっぱいになると言語化できない性分。。。

けど、少しずつ、ここで書くことが出来ていることは、うれしい。ブログを書いて改めて感じていることなのだけれど、日本語は、改めて美しいと思う。

ひらがな、かたかな、漢字。

ルーツは同じでも見た目がまったく異なる文字を使い分け、視覚的にもメリハリをつけながら、直接的や間接的、情緒的、理論的な表現がものすごーい数のバリエーションを持って存在している日本語を、もっと、やわらかく、美しく話せる人になりたい。 

 

 

というわけで、この残りの二週間の追加の目標をここに。

11.一日一ブログ一テーマ。

ここ最近のように、つらつらつらと自分の思ったことを書くのではなく、ちゃんと、テーマを設けて、書く。

12.筋トレ。

ここで突然!健康に気を付けないとね。帰国したらさらに多忙になるわけだしね。

13.荷造り。

ああ・・・。やらなくては。

 

そういえば、先日セーヌ川沿いを友人と歩いていたら、本当に、セーヌ川底から救出されたであろう電気スクーターが山積みになっていた。

 

mori-kei05.hatenablog.com

 

一方で、いまこの記事を書いているカフェでは、ストローが紙製になっていて、確実にエコ意識(ヨーロッパでは特に「脱プラスチックストロー」の動きを感じる)は広がっている。

鳥の目、虫の目を大事に生きよう!と改めて思うきょうでした。

 

みなさんは、どんな風に生きていますか?

 

パリのおすしについて考えたこと。

なんてことのないことなのですが、フランス(ヨーロッパ?)では、おすしが人気。

Sushi Shopは街の至る所にある。パリだけじゃなくて、小さな田舎町であっても。スーパーでも、サラダやパスタやサンドイッチなどのお総菜の横におすしがあることはよくある。だいたい、カリフォルニアロールと、サーモン。ときどきマグロも。

 

でも、そのほとんどが日本人ではなく中国人経営。さらに、誰が始めたのか分からないけれど、なぜか焼き鳥とペアになっていることが多い。

 

フランスのSushi Shopに入ってセットを頼むと、

味噌汁単品(具はマッシュルームの薄切り、ひらひらのワカメ)

甘酢で和えた千切りキャベツ(ジャパニーズ・サラダ、という名前がついていたりする。でもどこからこの品が生まれたのか、いつも不思議)

サーモン、アボカド、きゅうり、チーズ、、、などがベースのおすし、そして選ぶと焼き鳥(焼き鳥はつくねとチーズの肉巻き、サーモンなどが多い)

 

という順番は鉄板。ここに、なぜか食前酒で強いお酒が出たりもする。ちなみにこのおすしが日本人ではなく中国人によるものであることはフランス人たちも百も承知。それでも本当に大人気で、ケバブ屋さんと同じくらいの勢いで街角に立ち並んでいることもある。

ただ、日本人にしてみたら、お米はかたすぎたりやわらかすぎたりするし、お酢がきつかったり、焼き鳥といえど甘いてりやき味一種類だったりと、基本的に不評だ。行かない、というひとも多い。「日本の文化なのに(そんなエセもので商売して)!」と憤る人にも出会ったことがあるし、ネットでもそうした否定的な意見も目にする。

 

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このおすしについて、考えたこと。

 

もともと、パリでは、本当の日本人食を食べるなら「Rue Sainte-Anne(サンタンヌ通り)に行け」と言われる。オペラ・ガルニエの近くにある通りで、その周辺は通称「日本人街」。

ブックオフもあるし、日本のお弁当やさん、日本食スーパーやお好み焼き屋さんなどもあって、日本食を恋しくなった人や日本が好きなフランス人たちで賑わっている。(最近は韓国や台湾などの系列のお店も増えてきています。タピオカも人気。)

 

先日、「本物の日本食が知りたい!」というフランス人の希望で、いっしょに短い動画を作った。

まず、パリの典型的な「"中国"日本食レストラン(Sushi Shop)」を訪ねて、日本人がいるのか実際に聞いてみる。その後で、サンタンヌ通りへ行き、本当の「日本食レストラン」で和食を食べることに。

 

じつは、わたし個人的には「"中国"日本食」も「これはこれ」としてけっこう好きで、お米が恋しくなったとき、チーズやら肉やらはいやだなあ・・・というときに実は私は利用していたりする。でも、改まって店員さんと話すことはなかったので(中国人ってみんな言っているけれど、本当にそうかも分からないので)ちょっとどきどきしながら取材した。

 

結果として、5~6つのこうしたレストランを訪ね、じっさいに店員と話して気づいたこと。

・店員さん、やっぱり日本語は分からない。(日本語で話しかけると「ノンノンノン!」と断られる)

・「日本人の方はいますか?」と聞くと、「店長は日本人だが、今日はいない」と答えること。(すべてのお店のひとがそう答えた。マニュアルでもあるのかなあ。)

・だいたい、青とか紫のネオンがある。そして店内の内装は黒ベース。(日本人からしたらちょっとムーディーというか、おいしくなさそう、、、)

・セットメニューに「サムライ」とか「フジ」とか、ぜったい日本人じゃ使わないワードがついていることが多い。

 

これはこれとしておいしいんだけど、やっぱりどう考えてもこれは「日本食」ではない。いっしょに訪ねたフランス人と話をしながら、これは「和食」ではなく、「ヨーロピアン和食」というジャンルなんだろうな、と思った。

海苔ではなくライスペーパーで巻かれたおすし(米×米)も、焼き鳥と言いながらもどっちかといえば「てりやきチキン」みたいな味も、マッシュルームのお味噌汁も。

 

そして、そのあとサンタンヌ通りの定食屋さんに入って「これこそが本当の日本食?」とわくわくするフランス人たちに問われて、考えたこと。

そこで私たちは冷や奴と肉野菜炒め、そして冷やし中華を頼んだんだけど。

・・・これだって、「ジャパニーズ中華」じゃないか?ということ。

 

肉野菜炒め、ラーメン、餃子は、もともと中国からきたもの。日本人ならだれでも食べたことがあるであろうカレーは、インドからきたものだ。

「和食です!」と胸張っていいのかしら・・・と不意に考えてしまった。

でも、私にとってはまちがいなく「懐かしい味」であり、私自身たべた瞬間、思わず「あ~これこれ、わあ、なつかしい!」と口をついて出た。

 

そうなのです。

 

思ったのは、どんな「食」だって、いろんな国や地域や文化の違いを吸収し、取り入れ、融合させて進化してきたのだということ。

 

もちろん、「本当の和食」を追求することは大事だし、やっぱり、パリのSushi Shopで「日本の寿司はおいしい(もしくはおいしくない)」と判定して欲しくはない。

でも、「"中国"日本食レストラン」のおかげで、フランス人たち(ヨーロッパ人たち)が和食に親しみを覚えてくれていることは事実だし、それが本当の「日本食」と違っていても、それは当たり前なのだ。材料も違えば舌も違うのだから。むしろ「広めてくれて、アレンジしてくれて、ありがとう」と思ったのでした。

 

「あんなのはまがい物だ!」と怒るより、そうした違いや進化を楽しめた方が、きっともっと楽しい。

それに、文化も、そうして発展していくんだろうと思う。

一年間の総括、そのさん。

先日ふたつ書いた総括に続き。

 

「すまい」って、大事だな。ということ。

 

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じつは、こちらに来たばかりの頃、家が決まっていなかった。

 

そんなこと、よくあることだ、と思うかも知れません。

そうだけど、そうなんですけど、

やっぱり、じわじわと精神的に疲労がたまるのです・・・。

 

来る前に決める、もしくはせめて候補を立てておくとかすれば良かったのだけど、直前までものすごく忙しくて、ほとんど夜逃げのように荷造りをして出てきてしまった。

基基本的に身軽が好きなので、スーツケースひとつとボストンバッグひとつのみで。

(スーツケースは規定の大きさの範囲内で最大のサイズ。そしたら重量オーバーで空港で1万円かかった。。悲)

 

その二つの荷物と共に、ホテルと友人宅を渡り歩きながら探すことになったのだけど。

 

フランスに着いて数日後に始業式、次いですぐ授業が始まったので、それも余計に影響したのかもしれない。

まだ行きつけの図書館とかカフェがあるわけでもなく、予習・復習しなくてはちっとも理解出来ていないことを嫌と言うほど自覚しながらも、そもそも家を探さないといつまでたってもこの状況から抜け出せない。

 

。。。

 

私自身は恵まれたことに友人たちが快く泊めてくれ、そのおかげで激高のホテル滞在費を数泊分はおさえることが出来たけど、ひとのおうちにお邪魔することも、これまたやっぱり、申し訳なくて。。

 

「帰ることの出来る場所」「じぶんの"巣"」って、精神の安定にとても大事なのです。

 

先行き不透明だったもうひとつの理由として、時期が時期(9月下旬)だったから不動産の動くタイミングを逃してしまっていた、ということもあると思う。

いろんなサイトを見てもほとんど部屋のアナウンスはなく、あったとしても基本的にどこも女中部屋(フランスに良くある、建物の最上階の部屋。7階とか8階がざらな上に、10㎡以下の狭さ。私が見たのは6㎡とか7㎡)。まず、くるくるまわるらせん階段をその高さまで、重量オーバーしているスーツケース持って上がる自信がなかった(これは歳のせいかもしれない・・・)。しかもそんなに安くなくて。しかも時期もずれているから大家も早く入居者が欲しいから、催促強め。

 

フランス人向けの不動産のアナウンスも見たんだけど、そっちだと、契約するためには銀行口座とか収入証明とか出生証明書とかやたらと必要な書類が多くて、そもそも銀行は住まいがないと開けられないのに開けているはずがなくて、交渉するほどの費用対効果が見込めず、断念し・・・。

 

・・・なんかもう、日々「しょんぼり」ということばがぴったりの心持ちだった。

 

けっきょく、最後にもう、困って頼った有料の留学生向けエージェント(アパートを紹介する手数料をとられる)が、「ここしか紹介できません(これで無理ならお代はお返しするのでうちでは案内できません)」と言われたアパートが、

自分が一番住みたかった地区で、

4階(女中部屋じゃない!)で許容範囲、

小さいけれどそれまで見た部屋と比べ明らかにきちんと整っていた

ので、即決したというわけで、「終わりよければ全てよし」ではあったんだけど。

 

ずっとスーツケースとボストンバッグをもって、日々の泊まる場所(ホテルだったり、友人宅だったり)を回ったんだけど、「身ひとつ」って、これまで感じた以上に所在なくて。

 

なんか、この経験をきっかけに、すごくホームレスのひとのことを考えたのです。

そして、ホテルや友人宅だったら心配いらないけど、ホームレスのひとたちって、常に「身ひとつ」だから、たとえば洋服とか食べものとか拾った「財産」があったとしても、それを常に持ち歩かなくちゃいけない。そういう状況が、就職だとか、生活再建に踏み込みづらい理由になっている、と、のちのちジャーナリスト仲間に聞いた。

(ホームレスのひとたちの持ち物なんて、だれもとらない!と思うかも知れないけど、捨てられちゃうかも知れないし、ほかのホームレスにとられちゃうかもしれないし、やっぱり自分の持ち物を放置するって心許ない気持ちは同じだと思う。)

 

 

日本では「家に帰りたくない」というひとたちの話題も耳にするけど(女子高校生とか、サラリーマンとか・・・ちなみに私も大学生まで「家にいたくない」人間で、できる限り外に出ていた)。

でもやっぱり、地震とかの災害が起きたり、大雨が降ったり、不安で心細くなったりしたとき、自分の部屋のふとんにもぐりこみたい、って思う気持ち、だれにでもあると思う。

 

生まれたときからあたりまえに持っているもののありがたみって、じつはなかなか実感する機会がなかったりするのだな、と思ったの。

 

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ちなみにそうして見つけたパリのすまい、入居数日後に水漏れ(給湯器が古すぎて)、数週間後に子ネズミの出現など、まあトラブルもあったけど、良い思い出だ。

と、思っていたら、じつは日曜日の夜に家に帰ってきたらなぜか我が家だけ停電していて、月曜から出張だったので、「帰ってきたら直ってるかな?」と思っていたら、昨夜帰ってきても直ってなくて。。。

けさ、冷蔵庫の中身の現実と向き合いました。悲

なにがつらいって、冷蔵庫ないこともだけど、料理できないこともだけど、充電できないこともだけど、、、何より、お湯がでないこと。悲

水が止まっていないことが不幸中の幸いだけど、シャワーが水シャワーなのです。

 

夏でよかった。フランスの夏は20度以下になることもよくあるけど・・・。

 

正直、電気か水かと言われたら、水のほうが大事だと改めて実感。水がないとトイレもシャワーもダメになるし、手も洗えない。

・・・という問題ではなく。

 

こういういろんなことがあったから、人間って、たいていの不便でも生きていける、って改めて思う。

日本はサービスの不具合にとても敏感で、ある種、過剰なところがある。

電車が多少遅れたって死なないし(それよりも電車で飛び込み自殺をしてしまうひとたちを助ける仕組みを考えた方が良い)、お店のひとも人間なんだから間違えることもあるし、遅刻することもある。

 

と、いうことを改めて感じる1年でした。

 

それにしても、電気、早くなんとかしたい。